ヒロインの条件

その日はもう最後まで浮き足立ってしまって、まったく仕事にならなかった。とりあえず気持ちを落ち着けたくて、私は終業すると会社を飛び出した。

初夏の夜は少し湿っている。私はこの匂いが好きだった。コンクリートと葉っぱが呼吸する匂いっていうのかな、すごく気持ちがいいのだ。

私は、会社から電車で一時間弱のところのアパートに住んでいる。もう少し近い場所がよかったが、都心は本当に賃料が高くて手がでなかったのだ。でも、最寄駅から徒歩5分の好立地で、スーパーも近い。緑も多いし、何気に気に入っている。

築30年の木造アパートの二階が私の城だ。六畳一間、ベッドと丸テーブルのみの、小さな空間。恥ずかしいけれど密かにキャラモノが好きなので、ベッドのわきには抱っこするためのふわふわのぬいぐるみが置いていある。

窓が西向きのため、夜になった今でももやもやとした熱気が残っている。私は素早く窓を開けて夜風を部屋に通した。

ぺたんとサーモンピンクのラグの上に座り込み、ふうと一息をついて、改めて紙ナプキンをカバンから取り出した。

何度みても『佐伯日向』と書いてあるなあ……うそみたい。また脈が早くなってきちゃったよー。私はナプキンを大事に胸に抱きながら、「んー」と嬉しくて声にならない声をあげた。

部屋の真ん中に置いてある小さな丸テーブルにツップして、私はとにかく心を落ち着けようと大きく深呼吸をする。それからふとテーブルの上に乗っていた、小さな折りたたみ式のスタンドミラーに目をやった。

腕に頬をのっけたままの、私の顔が見える。キリッとした眉に、二重だけれどきつい瞳。かわいらしさのまったくない、そっけない顔だ。
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