君に伝えたいこと
◇
それは秋が深まる快晴の日だった。
数年通い続けている河原に小さな画材道具をぶら下げて降りて行ったら見つけた、夕日に照らされた猫背の背中。
誰だろう…あそこ、私の定位置なんだけどな。
少し離れた所に小さな折りたたみ椅子を広げた私に気が付かないのか、それとも気付いていて無関心なのかはわからないけれど、その人の空気が変わる事は無くただ目の前の景色を時々見上げては、スケッチブックに目を落とし、コンテでさらさらと何かを書いていた。
ふわりとした茶色い髪の毛が夕日に照らされて一部黄金色に輝いている。垂れ気味の目尻が優しい雰囲気を醸し出していると思った。
けれど、目の前の景色とスケッチブックを行き来するその目線は鋭さすら感じられるほど真剣そのもので、圧倒される様なオーラに惹き付けられる。スケッチに来たはずの私は、ほぼ、その人を見つめていたって思う。
気が付けば、日が沈み、周囲が温かさの余韻を消し始めていた。
…スケッチが進まなかったなんて初めてだな。
立ち去るその人の背中を見送っている所に双子の弟が現れた。
「あっ!居た!やっぱここか。」
「…見つかった。」
「『見つかった』じゃ、ねーわ。何やってんだよ。」
「いいでしょ。自由にさせてよ。私の身体なんだから」
言った私に琥珀色の目を揺らした歩(あゆむ)はそのまま手を伸ばして私を固く抱き締める。
「雪の身体かもしれないけど、無茶はダメ。」
「こんなにほっぺた冷やしてさ。熱出したらどうすんだよ」と温かく頬を包んでくれる掌に少しだけ鼻の奥がツンとした。
「許可を貰わないで病院を抜け出しただろ。河西先生が怒ってたよ。」
小さい頃から身体が弱くて入院を繰り返してた私は、病院の窓から見えるこの景色が好きで、それを絵に収めたくて何度も脱走してはここへ足を運んでいた。
それが発覚するたびに迎えに来るのは、いつも歩の役目で。
片腕で私を閉じ込めたまま、マフラーを優しく巻いてくれると儚く笑う歩。
「雪…帰ろ。」
おでこを合わせ、愛おしそうにそのまま唇を少し重ねた。
私も、歩も、もう今年で17歳。
姉弟でそう言う事をするのは普通ではない事は分かっていた。
私と歩は男女の違いだけで、顔も背丈も見た目はほぼ一緒。仕事が忙しくてあまり一緒に居られなかった両親は『双子にありがちな依存』と捉えて「私達が寂しい思いをさせてるから」と見てみぬふり。
嵩張る私の入院費の為に両親は必死で働き、歩は私の身体を心配して外へ目を向けられない。
家族の平穏を歪ませているのは紛れも無い私…。
◇
歩に連れ戻された数日後の夜、再び病院を抜け出した。
「…もう、いいよ、私は。」
ポツリと呟いた河原に、夜の風が強めに吹いたその晩。
大きなまん丸の月が川の向こう岸から私を照らす。
昼間の明るさとは違い、人の声も無く、水の流れる音だけがする空間。
このまま月に吸い込まれないかな…。
川の水面で伸びやかに揺れる光に向かって一歩踏み出そうとしたその時、ふわりと温かいものに包まれた。
パーカー…。
「…風邪引く」
隣に並んだ顔を見て驚いた。
この前、ここで絵を描いてた人だ…
正面から見ると垂れ目が顕著なその人は、”ふにゃり”と形容したくなる程、実に柔らかい笑顔で私を見返す。
「お月さんとおんなじ目。」
「へ?」
「まん丸。」
笑顔に負けない柔らかい声が
夜風が攫う、月の光に照らされた前髪が
身体の温度を上昇させて鼓動がドキンって強く打った。
「…色も黒じゃねーんだね、瞳。」
どうしよう…声を出したいのに金縛りにかかったみたいに出て来ない。
戸惑い、鼓動が早くなる私をよそに、目の前で腕組みをして背中の猫背を更に丸めた。
「ふ…っ」
ふ…?
「…ふえっくしゅっ!!」
豪快なくしゃみによって、川のせせらぎの音が一瞬かき消される。
…いくら何でもこの寒空の下、ロンT一枚は寒いよね。
「あ、あの…これ。」
返そうとしたパーカーを片手で軽く制される。
「次、ここで会ったら返して。」
「え?で、でも…」
「絵を描きに来てんでしょ?時々」
知っていた…んだ、私を。
月明かりに照らされて柔らかそうなブラウンの髪が艶を持った。
“ふにゃり”笑顔に柔らかくつややかな髪…。
かけられたパーカーを手でギュッと握りしめる。
いい…よね。名前くらい聞いたって。
次に会った時に上着を返さなきゃいけないんだから。
「あ、あの…」
「ん~?」
「な、名前…聞いてもいいですか?」
「俺?佐々木貴弘。」
「わ、私は…雪です。神崎雪。」
「そっか、雪ちゃん。風邪ひくなよ…んくしゅっ!」
鼻をすすりながら腕を組み、また背中を丸める佐々木さん。私よりもだいぶ背が高そうなのに、目線が丁度同じ位になっている。
「あ、あの…やっぱり、今返します。」
「へーき。雪ちゃんにありがとうだから、使って?」
首を傾げて瞬きをすると、またふにゃりとした柔らかい笑顔を向けられた。
「“誕生日の夜に、一緒にいてくれてありがとう。”」
誕生日…!
「お、おめでとうございます!」
興奮気味に発した言葉はくふふと笑う佐々木さんの声と一緒に秋の風に吹かれた。
佐々木さんて何歳なんだろう。落ち着きぶりからして、凄く上にも見えるけど、ロンTにジーパンなんて格好で、若くも見える。
「あの…何歳になったんですか?」
「内緒。おじさんだから。」
あ、また…”ふにゃり”と笑ってる。
「雪ちゃん、そろそろ帰んない?さみーよ…ここ。」
「は、はい。」
「送る」と言われて一度はお断りしたけれど、そんな私をただ「へーき、へーき」と結局送ってくれた佐々木さん。
「…ここ?」
病院を見上げた反応が何となく恐かった。
…さすがに夜あんな所に居るのは入院患者としてはあるまじきだから、脱走した人だってバレるよね。
俯いて上着を握りしめたら頭に掌が乗って感じた暖かさ。
「悪い子やの~。」
「次はちゃんと許可貰える時間に散歩な?」と変わらずふにゃりな笑顔の佐々木さんに鼻の奥がツンとした。
ああ…私、また佐々木さんに会いたい。
それは秋が深まる快晴の日だった。
数年通い続けている河原に小さな画材道具をぶら下げて降りて行ったら見つけた、夕日に照らされた猫背の背中。
誰だろう…あそこ、私の定位置なんだけどな。
少し離れた所に小さな折りたたみ椅子を広げた私に気が付かないのか、それとも気付いていて無関心なのかはわからないけれど、その人の空気が変わる事は無くただ目の前の景色を時々見上げては、スケッチブックに目を落とし、コンテでさらさらと何かを書いていた。
ふわりとした茶色い髪の毛が夕日に照らされて一部黄金色に輝いている。垂れ気味の目尻が優しい雰囲気を醸し出していると思った。
けれど、目の前の景色とスケッチブックを行き来するその目線は鋭さすら感じられるほど真剣そのもので、圧倒される様なオーラに惹き付けられる。スケッチに来たはずの私は、ほぼ、その人を見つめていたって思う。
気が付けば、日が沈み、周囲が温かさの余韻を消し始めていた。
…スケッチが進まなかったなんて初めてだな。
立ち去るその人の背中を見送っている所に双子の弟が現れた。
「あっ!居た!やっぱここか。」
「…見つかった。」
「『見つかった』じゃ、ねーわ。何やってんだよ。」
「いいでしょ。自由にさせてよ。私の身体なんだから」
言った私に琥珀色の目を揺らした歩(あゆむ)はそのまま手を伸ばして私を固く抱き締める。
「雪の身体かもしれないけど、無茶はダメ。」
「こんなにほっぺた冷やしてさ。熱出したらどうすんだよ」と温かく頬を包んでくれる掌に少しだけ鼻の奥がツンとした。
「許可を貰わないで病院を抜け出しただろ。河西先生が怒ってたよ。」
小さい頃から身体が弱くて入院を繰り返してた私は、病院の窓から見えるこの景色が好きで、それを絵に収めたくて何度も脱走してはここへ足を運んでいた。
それが発覚するたびに迎えに来るのは、いつも歩の役目で。
片腕で私を閉じ込めたまま、マフラーを優しく巻いてくれると儚く笑う歩。
「雪…帰ろ。」
おでこを合わせ、愛おしそうにそのまま唇を少し重ねた。
私も、歩も、もう今年で17歳。
姉弟でそう言う事をするのは普通ではない事は分かっていた。
私と歩は男女の違いだけで、顔も背丈も見た目はほぼ一緒。仕事が忙しくてあまり一緒に居られなかった両親は『双子にありがちな依存』と捉えて「私達が寂しい思いをさせてるから」と見てみぬふり。
嵩張る私の入院費の為に両親は必死で働き、歩は私の身体を心配して外へ目を向けられない。
家族の平穏を歪ませているのは紛れも無い私…。
◇
歩に連れ戻された数日後の夜、再び病院を抜け出した。
「…もう、いいよ、私は。」
ポツリと呟いた河原に、夜の風が強めに吹いたその晩。
大きなまん丸の月が川の向こう岸から私を照らす。
昼間の明るさとは違い、人の声も無く、水の流れる音だけがする空間。
このまま月に吸い込まれないかな…。
川の水面で伸びやかに揺れる光に向かって一歩踏み出そうとしたその時、ふわりと温かいものに包まれた。
パーカー…。
「…風邪引く」
隣に並んだ顔を見て驚いた。
この前、ここで絵を描いてた人だ…
正面から見ると垂れ目が顕著なその人は、”ふにゃり”と形容したくなる程、実に柔らかい笑顔で私を見返す。
「お月さんとおんなじ目。」
「へ?」
「まん丸。」
笑顔に負けない柔らかい声が
夜風が攫う、月の光に照らされた前髪が
身体の温度を上昇させて鼓動がドキンって強く打った。
「…色も黒じゃねーんだね、瞳。」
どうしよう…声を出したいのに金縛りにかかったみたいに出て来ない。
戸惑い、鼓動が早くなる私をよそに、目の前で腕組みをして背中の猫背を更に丸めた。
「ふ…っ」
ふ…?
「…ふえっくしゅっ!!」
豪快なくしゃみによって、川のせせらぎの音が一瞬かき消される。
…いくら何でもこの寒空の下、ロンT一枚は寒いよね。
「あ、あの…これ。」
返そうとしたパーカーを片手で軽く制される。
「次、ここで会ったら返して。」
「え?で、でも…」
「絵を描きに来てんでしょ?時々」
知っていた…んだ、私を。
月明かりに照らされて柔らかそうなブラウンの髪が艶を持った。
“ふにゃり”笑顔に柔らかくつややかな髪…。
かけられたパーカーを手でギュッと握りしめる。
いい…よね。名前くらい聞いたって。
次に会った時に上着を返さなきゃいけないんだから。
「あ、あの…」
「ん~?」
「な、名前…聞いてもいいですか?」
「俺?佐々木貴弘。」
「わ、私は…雪です。神崎雪。」
「そっか、雪ちゃん。風邪ひくなよ…んくしゅっ!」
鼻をすすりながら腕を組み、また背中を丸める佐々木さん。私よりもだいぶ背が高そうなのに、目線が丁度同じ位になっている。
「あ、あの…やっぱり、今返します。」
「へーき。雪ちゃんにありがとうだから、使って?」
首を傾げて瞬きをすると、またふにゃりとした柔らかい笑顔を向けられた。
「“誕生日の夜に、一緒にいてくれてありがとう。”」
誕生日…!
「お、おめでとうございます!」
興奮気味に発した言葉はくふふと笑う佐々木さんの声と一緒に秋の風に吹かれた。
佐々木さんて何歳なんだろう。落ち着きぶりからして、凄く上にも見えるけど、ロンTにジーパンなんて格好で、若くも見える。
「あの…何歳になったんですか?」
「内緒。おじさんだから。」
あ、また…”ふにゃり”と笑ってる。
「雪ちゃん、そろそろ帰んない?さみーよ…ここ。」
「は、はい。」
「送る」と言われて一度はお断りしたけれど、そんな私をただ「へーき、へーき」と結局送ってくれた佐々木さん。
「…ここ?」
病院を見上げた反応が何となく恐かった。
…さすがに夜あんな所に居るのは入院患者としてはあるまじきだから、脱走した人だってバレるよね。
俯いて上着を握りしめたら頭に掌が乗って感じた暖かさ。
「悪い子やの~。」
「次はちゃんと許可貰える時間に散歩な?」と変わらずふにゃりな笑顔の佐々木さんに鼻の奥がツンとした。
ああ…私、また佐々木さんに会いたい。