幻惑な夜
「10万と…」

俺は財布から一万円札を何枚か取り出す。

受付の女の視線が、一万円札を数えていた俺の指先に注がれている。

あるよ、カネはちゃんと。

俺はそう口に出さずに呟いたが、すぐに違うなと思う。

受付の女は、俺がカネをちゃんと持っているかと目を向けたのではない。

俺が一万円札を取り出した
ヴィトンの財布に反応したのだ。

俺がヴィトンじゃ、おかしいらしい。

穴の開いたGパンに、色褪せたトレーナーを着た小汚ない男がヴィトンじゃ駄目なのか?

この財布が気になる? その通り、俺のじゃないよ。
そう受付の女にいきなり言ったら、どんな反応をするだろう。

不意をつかれ、もしかしたら俺の顔を見てくれるかもしれない。

実際、この財布は俺のじゃない。

このヴィトンの財布も、そして財布の中に入っているこのカネも、俺のものではない。


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