幻惑な夜
自動車がベルを鳴らしながら、ゆっくりとこっちの方へと向かって来るのが分かる。

やがて、タクシーの中で寝ている俺のすぐ横までやって来た。

その時自動車がいきなりバランスを崩す。

二人の笑い声が響く。

男がバンと音をたて、ドアのガラスに右手を付いて自転車を支えた。

俺はシートに寝たまま、ガラスに付いた男の右手を見つる。

「あぶねぇ、あぶねぇ」

男は笑いながら言ったが、俺の目は笑っていない。

「よっ」と、男は自転車の態勢を立て直すと、中にいる俺に気付かなかったのか、何事もなかったかのように視界から消えていった。

「今人寝てなかった」
「嘘! マジでぇ」

二人のそんな話し声が、ゆっくりと遠ざかっていく。

俺はシートを起こして、ルームミラーの中に二人の自転車を探す。

二人の姿は、もうそこにはない。

胸ポケットからタバコを取り出した時、自転車のベルの音が微かに聞こえた。

俺はルームミラーにもう一度目がいく。

自転車の二人はやっぱりいなくて、俺はニヤリとした。

ポケットから取り出したタバコはカラで、俺のそのニヤけ顔はすぐに消えていく。



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