幻惑な夜
すぐに女のであろう、階段を降りて行くヒールの音が聞こえてきた。

「また買えば?」「買ってよ」二人の会話が遠くなり、微かだが耳に入ってくる。

ヒールの階段を降りて行く音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。

静かだ。

俺は立ち上がり、レンズから外を覗く。

女と男の姿は、もうそこにはない。

口に咥えているタバコの煙が、レンズを覗く目に染みる。

俺はその目をギュッと一度閉じ、レンズから目を離した。

そしてゆっくりとドアを開けて静まり返った廊下へと出て行く。

「決まった訳じゃない、決まった訳じゃない」とその場で二回、俺は呪文のように呟いてから、ドアの鍵を閉めた。


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