幻惑な夜
そこにいたのは、口にマスクをした男だ。

男は俺のタクシーの横に立っていた。

男はニヤニヤしながらタクシーを指差している。
もちろん口はマスクで隠れて見えないのだが、目は笑っている。

「大宮までお願いしたいんですが、タクシー」

長距離。
この時間、しかもこんなとこで長距離の客を拾えるなんて、そうそうあるもんじゃない。

俺はチラッと腕時計を盗み見る。

午前1時31分。

この時間なら大宮まで行って戻って来ればそれなりの時間にはなる。

仕事の上がりは5時だから、それまで適当に街を流してればいい。
もちろん回送でだ。

俺がこの仕事をしていて、唯一だが幸せを感じる時。

それは好きなCDを大音量で聞きながら、明け方の道を突っ走る事だ。

勤務終了間際の明け方の道はスカスカで、車の数もまばらだ。

誰にも邪魔させない。

回送にして、ただただアクセルを踏み続ける。

…現実をブレさせてくれる時間。


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