幻惑な夜
犬が2回吠える。

女は立ち止まりしゃがみ込むと、何度も何度も犬の頭を撫でた。

何と言う品種かはしらないが、白いフサフサした小さな犬は嬉しそうにシッポを振っている。

「かわいいですね。家でも犬飼ってるんですよ。柴ですけどね。柴犬」

男に目をやると、男は振り返って犬を見ている。

男の視線でも感じたのか、犬がこちらにスッと顔を向けた。

すると男は何を思ったのか、犬に向かってワン、ワンと鳴き真似をしてみせた。

「よせ、バカっ…」

俺は思わず、そう小さく叫んでいた。

「はい?」

男が訝しそうな顔で、俺の顔を見返す。

時間が止まる。

明らかに俺の顔は引きつっているに違いない。

思わず、見ず知らずの男にバカなどど叫んでしまったせいではない。

そんなものどうでもいい。

女がこっちを見ていたからだ。

俺と女は目が合っている。

…やっぱりだ。
…やっぱりじゃねぇか。


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