幻惑な夜
…恭子。

あの、犬と一緒に歩いている女は、ほんとに恭子なのか?

俺は心のどこかで、あの女が恭子ではないと、そう思いたいと思っている。

「大丈夫ですか、ほんとに?」

大丈夫だよ、体はな。

気分は優れない。
当然だ。

俺はコホコホなどと、わざとカラ咳などをして見せる。

体の調子がおかしい?
胸の具合が悪い?

そんな男の勝手な思い込みに、俺は便乗。

「…いや、ちょっと風に当たって休んでいたんですが…大丈夫、もう大丈夫です。どうぞ、大宮までですよね」

「あ、いえ…」

男は口ごもると、下げていたマスクを口に戻した。
嫌だよな、普通。

汗垂らして、顔面蒼白で胸を押さえながら橋の上に佇んでいるやつなんて。

そんなやつが運転するタクシーなんか乗りたくないよな。

俺も今さら大宮までなど、行きたくはない。


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