幻惑な夜
「あ、何だか申し訳なかったですね、休んでいるところ。どうぞどうぞ、休んでいて下さい」

男はマスクの中でモゴモゴとそう言うと、軽く会釈をした。

そうですか、それじゃ、なんて普通にタクシーに乗られたらどうしようかと思っていた俺はホッとする。

「…そうですか、ほんと、どうもすいません」

俺は腹の中でニヤリだ。

男は踵を返し、歩きながら軽く右手を上げた。

ゆっくり歩いていくその男の後ろ姿を見ながら、俺はワイシャツのポケットからタバコを取り出す。

口に咥え火をつける。

100円ライターの、火をつけるカシュカシュと言う音に一瞬男の背中がピクリと反応したように見える。

が、実際にはどうだか分からない。

すでに男との距離は離れ、その後ろ姿は夜の闇に紛れ始めていたからだ。


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