幻惑な夜
男は俺から少し離れたとこで立ち止り、携帯を手に話し始めた。

片手で抱えられた赤ん坊は、さらにグズりだす。
その声はさらに大きくなる。

男は赤ん坊を煙たそうに一瞥すると、赤ん坊の泣き声に負けじと話し続けた。

「だからお前、今どこにいるんだって? …ああん、だから泣いてんだよ、泣きっぱなしだよ。そんな知らねえよ、何で泣いてるかなんて」

男はイラつきながら、3メートル四方を行ったり来たりしている。

俺は変な言い掛かりをつけられるような気がして、とりあえずタクシーの中へと滑り込む。

…あいつ、やっぱりあいつだよな。

俺は運転席に座り、ルームミラーに写る男を伺いながら考えた。

あいつはさっき通って来た環七のガソリンスタンドで働いていた男だ。

俺がこの街で暮らしていた12年前にも、そのスタンドで働いていた男。

俺と恭子が住んでいた201号の部屋の前、202号に住んでいた女と付き合っていた男。

さっきの夢の中にも出た長髪の金髪…。


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