古都奈良の和カフェあじさい堂花暦
家の前まで送って貰って、万が一にも母と顔を合わせるようなことになったら恐ろしく面倒なことになりそうだったので、近くの曲がり角で別れることにした。

奏輔さんは私が家の門にたどり着くまで、角のところに立ったまま見守っていてくれた。

ぺこっと頭を下げると、片手を大きく振ってくれて、そのまま踵を返して歩き出した。

その背中がまた曲がり角を曲がって見えなくなるのを見送ってから、私は家の中に入った。

なんだか妙にすっきりとして、前向きな気分だった。

涙にはデトックス作用があるって聞いたことあるけど、そのせいなのかもしれない。

そのせいか、急に遅くなったことについての母のクドクドとしたお説教を聞いても、今朝までのようにずーんと重たい気持ちにはならずにいられた。

「ごめん。心配かけて。今度からちゃんと連絡するから」

素直にそう謝った私を、母は胡散臭そうに眺めてから

「今度からやないわ。嫁入り前の娘が夜遅くまでウロウロと。だいたいその着物はそんなその辺をうろつきまわる用のものとちゃうねんで」

とブツブツ言った。

着物を脱いで、衣桁に吊るし、帯や小物を和室の箪笥にしまう。

母が用意しておいてくれた夕飯を食べて、「早く入ってしまって。片づかへんねんから」と急かされながらお風呂に入る。

ドラッグストアのお徳用のボディソープを泡立てて体を洗いながら、私は明日、カフェの仕事帰りで駅前にでも寄ってお気に入りのシャンプーやボディソープを買い揃えて来ようと考えていた。

何はともあれ、これからしばらく私はこの街で暮らして、仕事していくのだ。

いきなりは無理かもしれないけれど。

少しずつ、以前の自分──「あのこと」がある前の自分を取り戻しながら暮らしていこう。

そう思いながら、体を洗い、髪を洗って、メイクを落とした。

ざぶんと湯舟に漬かりながら、私はなんだかずっと澱んで止まっていた自分のなかの時間が、今少しずつ動き出そうとしているような気がしていた。


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