笑顔の君は何想ふ
「で、どうしてあんなことしたんだ?」
ショッピングモールの一階にあるカフェの片隅で、正面に座る男の子に尋ねる。東堂はドーナツと一緒に、すっかりハマっているエスプレッソを僕の隣で飲んでいる。
アホみたいに砂糖を入れてるが、そんなに入れると糖尿病になるぞ。
「えっと……その……ごめんなさい」
「いや、謝るんじゃなくてだな……。別に責めているわけじゃないんだ。ただ、何で万引なんかしようと思ったんだ? 盗ろうとしたの教科書だろ? 四月に買わなかったのか?」
「……そう、なんですけど。……その」
まずい。イライラしてきた。
初対面の年上相手で緊張するのは分かる。ただ、この子の感情円は緊張よりも赤色──『敵意』が強い。
どうして初対面で、敵意を向けられないといけないんだ。その割にビクビクしている風を装って、何も話さないし。
横目で東堂を覗くと、カップの底に溜まった砂糖をスプーンですくっている。
いつか糖尿病になっても、僕は知らないからな。
「教科書、なくしたのか?」
「……なくしたわけじゃ、ないです」
ふむ。嘘はついていないな。
なくしたわけじゃないけど、存在はしないと。なら考えられるのは……、
「盗られたか?」
「…………!」
焦りの色が浮かんでいるのが見える。なるほどな、こいつイジメられてるのか。
奥底に眠っている記憶が脳裏をよぎる。絶望した真っ黒な心と、敵意と悪意にまみれた教室。そして、簡単に変わる人の心。
「お前、名前は?」
「……堂本、堂本優太です」
優太か。これはまた、随分と優しそうな名前だな。
「そうか。なあ堂本君。親には話したのか?」
「……何がですか?」
「学校でイジメられていることだよ」
今の今まで、コーヒカップとスプーンのぶつかる音が鳴っていたのに、僕の言葉を聞いて止まった。東堂は顔を上げ、男の子の目を真っ直ぐに見る。
「あなたイジメられているの? なら、闘わなくちゃ!」
東堂の言葉に、堂本君の敵意が強まる。
「……僕はそんなに強くない。背も低いし、力もないし、僕には何もない」
ああ、この堂本君は理解しているのだ。
自分が虐げられる立場であると。自分は何もできないと分かっていて、それでも何とかしたいと思い、世の中の全てに敵意を向けている。
「立ち向かうのに必要なのは強さじゃないわ! 勇気よ!」
それは正論だよ、東堂。
正論で、綺麗事だ。
挑戦することが大切だとか、勇気があればなんとでもなるだとか、そんなのは強者の理論だ。
「……無理だよ。僕には無理だ」
弱者が生き残るためには、二つしか方法はない。
一つは逃げること。草食動物の多くは、この方法で生き延びた。
もう一つは、守ってもらうことだ。自分よりも強い者に。強者の仲間になれば、痛い思いをすることはない。身の保証はされるのだから。
「……もう、死にたい……」
「そんなこと──」
「そんなことは言うな!」
『死にたい』という言葉を聞いて、思わずその場で立ち上がった。
死ぬことだって、逃げることと一緒だと言う人もいる。けれど、それは違う。死ぬことは捨てることだ。逃げることは隠すことだ。
捨てたものは二度と戻ってこないけれど、隠したものは再び見つけることができる。
残された人の気持ちも考えずに、死にたいなんて考えちゃだめだ。自殺だろうが病死だろうが、残された人は辛い。死ぬまで消えない痛みを負うのだから。
「涼夜君? 大丈夫?」
心配そうな目で、東堂が僕の手を取る。冷静になって周りを見渡すと、どの席の視線も僕に向けられている。
僕は小さく会釈してから座る。
「悪い。ちょっと感情的になった。もう大丈夫だ」
「そう? ならいいけれど」
東堂の温かい右手が、僕の左手から離れる。店内は冷房が効いているからか、やけに左手は涼しく感じた。
「とにかくさ、そんなに辛いなら親御さんに話した方がいい。何なら、僕達も付いていってやるからさ」
「……お父さんは仕事でいないです。今は、お姉ちゃんしか……」
堂本君は俯いたまま、ポツポツと雨音のように話す。
「お母さんはいないの?」
「……うん。ずっと前からいない」
ずっと前から、ということは離婚でもしているのだろうか。
「なら、お姉ちゃんに話したらいいんじゃないか? お姉ちゃんは怖いのか?」
「……ううん。優しいです」
「お姉ちゃんは今何歳だ?」
「十九歳。大学一年生」
僕と同じか。
詳しく話を聞くと、堂本君は中学三年生で(自分でも言っていたが、確かに中学三年生にしては随分と小さい)、姉ちゃんは僕と同じ大学らしい。名前を聞いても、全く聞き覚えがなかったけど。
「よし、行きましょう! ねえ優太君、歩いて行ける距離かしら?」
「うん。十五分くらいで着くよ」
さっきから気になっていたんだけど、堂本君は僕に敬語なのに東堂にはタメ口なんだよな。
もしかして東堂のやつ、同級生に思われているんじゃ……。
というかそもそも、僕達は自己紹介してねえや。
まあ、いいか。
今はこの少年が、生きたいと思ってくれるなら、ただそれだけで。