笑顔の君は何想ふ
堂本君が学校でイジメられていること。
教科書がなくなり、ショッピングセンターで万引しようか悩んでいたこと。
その現場に僕達が居合わせ、話を聞いたこと。
そして、その事実を打ち明けるために来たこと。
「……それ、本当?」
僕の話を何も言わずに聞いていた彼女は、話が終わるなり一粒の涙をテーブルへと落とした。
その両肩は微かに震えていて、感情円なんか見るまでもなく、彼女の心境を察することができる。
迷ったけれど、万引を実行したことは言わない事にした。結果的には何も盗っていないわけだし、彼女にこれ以上ショックな話を聞かせたくなかった。
さすがの東堂も空気をよんでいるのか、口を開くことなく虚空を見つめている。その目が何を見ているのか、誰にも、もちろん僕にも分からない。
「……うん。全部、本当なんだ」
長い沈黙のあと、堂本君は静かに頷く。
「どうして……どうしてもっと早く言わなかったの!? もっと早く言ってくれれば、お姉ちゃんも一緒に悩んであげられたのに!」
彼女は本気で悲しんでいて、そんな姉を見て弟も悲しんでいる。その心には、カフェで僕達に向けていた敵意は一切ない。それだけ、姉のことを信頼している証だろう。
「僕……どうすればいいのかな」
「………」
絶望の淵にいる弟の言葉に、堂本姉は何も言えずにいる。
堂本姉には、学校とは楽しいものだったんだろう。弟のことを心配する気持ちは本物なんだろうけれど、彼女には経験がない。だから、何も言えない。
転校する、というのは対イジメにおいて最も有効な手段だと僕は思っている。けれど、堂本家の状況を見るに、転校するというのは経済的に厳しいだろう。
ならば、どうするか。
「学校に行かなければいいんじゃないか?」
僕は悩む二人に投げかける。
「引きこもりと言えば引きこもりだけどさ。今中学三年生なんだろ? 一年学校を休んで、家で勉強すればいいんじゃないか? で、同じ中学のやつがいない高校にいけばいい」
問、イジメをなくすにはどうすればいいでしょうか?
答、イジメられている人が学校を辞める。
これは臭い物に蓋理論だ。根本的な解決にはなっていない。だけど、解決する必要なんてない。社会に出たら、中学の同級生なんてほとんど会わないし。
「正直に言うとさ、僕は中学どころか高校にも通っていない。ずっと家で一人勉強してた。高校の卒業資格さえ取れば、大学受験だって出来るし、世の中なんとかなるもんだぞ?」
引かれるかな、と少し思ったけれど、東堂の心に変化はなかった。堂本姉弟も、驚きはあるようだけど、軽蔑の色は見えない。
中学、高校に通っていないことを話したのは、今回が初めてだ。
僕はイジメに屈して引きこもったわけじゃないけどな。というか、引きこもってはいないし。
「ま、これは解決策の一つだ。決めるのは堂本君だからな」
「……優太がそうしたいなら、お父さんには私が話すよ? お父さんも反対はしないと思うし──」
「逃げた先に何があるの?」
解決へと向かっていた空気を断ち切るように、無邪気なならず者は口を開いた。なぜそんなことをするのか、理解できないという表情で。
「逃げたところで解決はしないわよ? まずは闘わなくっちゃ」
堂本姉弟の心に、敵意の色が浮ぶ。二人が何か言うよりも早く、僕は東堂に反論する。
「……東堂、それは強者の理屈なんだよ。世の中勝てない勝負なんて山ほどあるんだ」
「別に勝てなくてもいいじゃない! でも、何もせずに逃げるのは違うと思うわ!」
「……負けるのが分かっているなら、わざわざ傷を負う必要なんてないだろ」
「だって、堂本君は今、笑えていないもの! 負けてもいいから闘いましょうよ! それで、もしも負けたら笑いましょう! 僕は闘ったんだ、って!」
負けたあとに笑えるわけなんてないだろ? 負けることは惨めだ。惨めで、どうしようもなく自分が情けなくなる。
「大丈夫! 笑顔でいれば、誰かがきっと助けてくれるわ!」
「もし……もし誰も助けてくれなかったら?」
堂本君の搾り出した言葉に、東堂は花のような笑顔を浮かべた。
「そのときは私の家に来ればいいわ! 勉強くらい私が教えてあげるわよ! だから笑いましょう! だって、笑っている人を見ると、私も笑顔になる。それで、私を見た人も笑うの。そうすれば、世界中が幸せになるのよ!」
東堂は立ち上がり、腕を大きく広げる。その表情はこれまで見たなかで、最高に眩しい笑顔で、一番優しい顔だった。
僕からすれば笑顔が伝染するなんて、そんなものは机上の空論だ。世界は善意で回っているわけじゃない。
人間が一致団結するときは、仲間意識なんかじゃない。共通の敵がいるからだ。群れる生き物は、弱いからこそ群れるのだから。
だけど今、僕は世界の変化を見た。いや、世界の変化と言えるほど、大袈裟なものなんかじゃないのかもしれない。でも、僕の目に、この呪われた目に確かに映った。
僕が綺麗事だと斬り捨てた言葉で、堂本姉弟の心が変わる瞬間を。
「僕なんかでも、闘っていいのかな……」
「『なんか』なんて言ったらダメよ! 誰だってヒーローなんだから! ほんの少しの勇気を持つだけで、どんな人でもヒーローになれるのよ! だから、挑戦してみましょう! 失敗したら、その時は私と涼夜君が笑顔にしてあげるわ!」
おい、何気に僕も入れてるんじゃねえよ。他人を笑顔にするなんて僕にはできないからな。
「お姉ちゃんは、どんなことがあっても優太の味方だからね」
堂本姉が、弟の頭に優しく手を乗せる。
「……うん。ありがとうお姉ちゃん。僕、闘ってみるよ!」
堂本君が、自分を鼓舞するように拳を握りしめる。この家に入ってからも、途絶えることのなかった敵意の色が消え、ほんの少しの自信が顔を覗かせている。
「ええ! その気持ちだけで、あなたもヒーローよ!」
強く、優しく、迷いがない。
東堂香織は、僕の憧れたヒーローだ。
あの蒸し暑い教室で、僕が成り損ねたヒーロー。
──僕はあのとき、彼女のようになりたかった。