笑顔の君は何想ふ
次の日から、黄瀬は明石に対する嫌がらせを始めた。
始めの数日は、黄瀬自身が明石のことを無視したりする程度で、クラスには影響はなかった。明石も黄瀬とは関わりたくないだろうから、むしろ無視してくれる方がありがたいといった様子だった。
そんな明石が気に食わなかったのか、事件は身体測定の日から一週間後におきた。
「おいタクヤ、サッカーしようぜ」
昼休憩、自分の席で弁当を食べていると、やけに大きい黄瀬の声が耳に入る。
「サッカー? いいけど、メンバーは?」
「メンバーはいねえよ。教室の後ろで、ボール蹴り合うだけだからよ。そんな思いっきり蹴らねえから大丈夫だろ」
「おーけい。やるか!」
拓也はドッジボール以来、黄瀬とつるむことが多くなった。黄瀬は仲の良いクラスメイトが何人かいるが、その中でもタクヤを特別扱いしていた。
僕はというと、身体測定の日から黄瀬とはほとんど話していない。そのため、必然的に拓也といる時間も減った。最近は違う小学校出身の、クラスでも目立たたない数人と一緒にいることが多い。
「へい! パス!」
「おーけい、春樹!」
教室の後ろでは、黄瀬と拓也が向き合ってボールを蹴り合っている。まだ弁当を食べている生徒も多く、快く思っていない人も少なからずいる。だけど、誰も黄瀬達には注意しない。
クラスのリーダーを敵に回したくないんだろう。クラス内は無関心の色で溢れていた。
「行くぜ! 必殺シュート!」
黄瀬の声が教室に轟き後ろを振り返ると、引き絞られた右足がボールと接触するところだった。
ゆっくりと地面を転がる程度だったサッカーボールが、宙に浮いて弾丸のように直進する。
ボールは拓也の横を通り抜け、窓際の一番後ろにある机に直撃した。当たった衝撃によって、机の上にあった弁当箱は地面へと落下し、中身をぶちまける。
「おーおー、悪いなあ、明石。足が滑っちまってよ。事故だから仕方ないよなあ? なあ竹中、お前見てたよなあ? 事故だろ今のは」
明石の前に座る生徒は、睨みつける黄瀬の言葉に、「……うん」と小さく返事した。周りの人達は、自分がターゲットにならないように、必死に目を伏せている。
昨日までとは比べものにならないくらいに、黄瀬の感情円はより色の濃い燕脂に染まっている。対する明石は、依然橙色のままだ。
「………………」
明石は何も言わずに、弁当箱を拾い上げる。無視されたことに苛立ったのか、黄瀬は弁当の残骸を踏みつける。
「お前さあ、何無視してんだよ!」
「………………」
明石は何も言わない。淡々と床に落ちた残骸を片付けている。
「っくそ!」
吐き捨てるような言葉と舌打ちが教室に響き、教室内はまるでお通夜のように静まり返る。
明石が残骸を入れている、ナイロン袋のカシャカシャとした音だけが、妙に小気味良く聞こえていた。
***
明石への嫌がらせ、いや、イジメはクラス全体を巻き込みながら、日に日にエスカレートしていった。
始めは黄瀬だけだった敵意の感情円は、日毎に増えていき、教室は橙色と臙脂色の花園を形成していた。
僕が感情円について考察し始めた頃、『敵意・悪意・怒り』の違いがよく分からなかった。
結論から言うと、怒りがエスカレートしたものが敵意だ。これらには感情を向ける対象がいる。それに比べて、悪意は対象が厳密でない。誰でもいいから悪いことをしよう、といった時に浮ぶのが悪意だ。
僕に見える感情の中で、最も醜いのが敵意だ。はっきり言って、今の教室は『地獄』といっても差し支えない状況だ。
明石へのイジメが始まって二週間が経ったある日、ずっと橙色だった明石の感情円が黒ずんでいることに気付いた。
そう言えば、黒色の感情円は見たのは始めてだ。白色は見たことはあるものの、未だにどんな感情なのかは分からない。
白色の人は赤ちゃんや老人が多くて、コミュニケーションが取れないから確かめようがない。
僕はイジメには参加していない。けれど、こんなのは言い訳だろう。傍観している人と、イジメをしている人に差異なんてない。どちらも等しく『悪』なのだから。頭ではそう思っていても、僕は傍観することしか出来なかった。今の学校生活は、華やかではないものの数人の友達と一緒に楽しく過ごせている。
黄瀬と関わって、平穏を壊したくなかった。
***
黒ずんでいく感情円は留まることがなく、その速度を加速させていた。入学して既に一ヶ月とちょっとが経った日、明石の感情円は『漆黒』と言っていいほどの色になった。
止まらないイジメは、さらにヒートアップしていく。何をされても、明石は言い返すことがなかった。そのため、皆はまだ大丈夫だと思っていたのかもしれない。
だけど、僕には見えてしまった。
虫に喰われたように穴だらけになり、薄くなっていく感情円を。
この時になって、ようやく僕は事態の深刻さと、漆黒の感情円の意味を理解した。
ほとんどの色は、色と感情がリンクしていないのに、こういうときだけはリンクしているらしい。
黒色、それは『絶望』だ。
不意に、父さんの言葉が頭によぎった。
──強く、優しく、迷いなく。
黄瀬を止めることができるのは自分しかいない。明石の感情を誰よりも理解している僕にしか。
僕は平穏よりも、英雄になることを選んだ。