笑顔の君は何想ふ



 いつもどおりの日常に反吐が出る。

 飽きもせずに、昼休憩にサッカーと称したイジメを行う黄瀬と、それらは見えていないかのように振る舞うクラスメイト。

 僕も昨日までは、そんなクラスメイトと同じだった。だけど、今日からは違う。僕はヒーローになる。

 強く、優しく、迷いのないヒーローに。




「お前らやめろよ!」


 勢いよく立ち上がったため、座っていた椅子がひっくり返り、大きな音が鳴った。我関せずといった雰囲気で、昼ご飯を食べていたやつらの箸も止まる。

 いい加減、我慢の限界だった。これ以上、薄くなっていく彼の心を見ていられない。

 皆はどう思っているのだろうか。これくらいは遊びの範囲だと考えているのかもしれない。やられる方は、やっている方が思っているよりもずっと大きなダメージを負っているのに。敵意と無関心の色で埋め尽くされた教室で、僕はたった一人で立ち上がった。

 彼を助けることができるのは、僕しかいない。

 誰にも相談せず、言葉を発さない、そんな彼の気持ちを理解しているのは、この世で僕一人だ。


「ああ? 何だよリョーヤ。急にどうした? 正義のヒーロー気取りか?」


 拓也と蹴り合っていたボールを足裏で止めると、僕よりも一回りは大きい体を見せつけるかのように、黄瀬は胸を張って僕の元へ近づいてくる。

 黄瀬の感情円は、僕との距離を縮めても色褪せることなく、汚い臙脂色を示している。


「よく聞こえなかったからよ、もう一回言ってみろよ。今座れば、俺は何も聞いていねえ」


 これは、黄瀬なりの警告なのだろうか。

 ほんの短い時間とはいえ、一緒にいた僕への温情なのかもしれない。

 黄瀬は、明石以外のクラスメートには今のところ手を出していない。今ここでおとなしくしておけば、これからも平穏な学校生活を送れるに違いない。


「いい加減にしろって言ったんだよ。これ以上、明石に関わるな」


 だけど、引き下がるわけにはいかない。これ以上、放置していると明石の命が危ない。

 穴だらけになった感情円が、どうなるのかは知らないけれど、死が近い人の感情円が薄くなるのは間違いないのだから。


「お前らにとっては遊びかも知れないけどさ、明石にとってはそうじゃねえんだよ」

「何だよリョーヤ。本当に正義のヒーローにでもなったつもりか? 今まで黙って見ておいて、急に辞めろって言われてもなあ?」


 黄瀬の言うとおり、もっと早くに止めるべきだった。明石が気にしていないから大丈夫だなんて、傍観している場合じゃなかった。

 何が、大丈夫だ。

 弁当ひっくり返されて、クラス中から無視されて、大丈夫なわけないのに。


「見ている方が気分悪いんだよ。そんなに明石が、先輩から声かけられたのが悔しかったのか?」


 黄瀬に負けないように胸を張り、できる限りの余裕を浮かべる。


「んだと……? もっかい言ってみろよリョーヤ!」

「何回でも言ってやるよ。明石が先輩に話しかけられたのが、悔しかったんだろ? ああ、もしかしたら羨しかったのか? 自分は先輩に無視されていたもんなあ? はっきり言って、先輩はお前のこと疎ましく思っているぞ?」


 黄瀬からの返答はなく、そのかわりに堅く、重い拳が僕の頬めがけてとんでくる。

 一歩下がってそれを避けると、黄瀬の長い右足が振り上げられる。これ以上後ろに下がると、弁当を広げている子の机に当たってしまう。

 迷惑をかけるわけにもいかず、左手を伸ばして黄瀬の右足を受け止める。


「言い合いじゃ勝てなくても、暴力なら勝てると思ったか?」


 父さんに勧められて、小学二年生から六年生までの間、僕は空手を習っていた。空手に対する熱意は、それほどなかったけれど、素人の拳を凌ぐくらいは簡単だ。

 父さんがどうしてあんなにも熱心に勧めていたのか、当時は分からなかったけれど、今なら分かる。

 間違ったことを間違ったと言うには、力がいる。

 暴力で解決しろというわけではなく、力がないと行動する勇気が湧かないから。

 優しさとは強さなんだと、今なら分かる。


「あー、お手上げだ。俺はもう、明石を攻撃しねえ」


 両手を上げて、降参のポーズをとる黄瀬。依然、敵意の色は浮かんでいるものの、黄瀬の言葉に嘘は見えない。

 やけにあっさり引いたな……。今までの行動を見る限り、こんなにも簡単に負けを認める奴じゃない。どうせ、僕が油断するのを待っているのだろう。


「そうか、ならいいよ」


 両手の力を抜いて、戦闘の意志がないことを示す。僕が油断したと見て、黄瀬が何かアクションを起こすと思った。しかし、本当に降参したつもりなのか、黄瀬は教室から出て行ってしまった。

 黄瀬が教室から出て行ったのを見ると、明石イジメに参加していたクラスメート達も、黄瀬の後を追って教室から消える。


 終わった……のか? こんなにも簡単に?

 誰も助けようとしなかっただけで、こんなにも簡単に明石を救うことができたのか?

 黄瀬も引き際が分からなかっただけなのかもしれない。収拾が自分でつけれなくなっていて、誰かが止めてくれるのを、本心では待っていたのかもしれない。

 案外、人間性善説というの正しいのか?


「あの……」


 黄瀬のグループがいなくなった教室で、今まで何をされても口を開かなかった明石が、僕の前に立っている。黒ずんでいた心はほんの少しだけだけど、元の色を垣間見せていた。


「ありがとう……一色君」


 ああ、そうか。

 僕はこの言葉を聞きたかった。

 この目にも、意味があるのだと証明して欲しかった。

 父さんの言うとおり、これからもこの目でたくさんの人の手助けをしよう。


 そう思うことができた卯月の空は快晴で、前途洋々たる僕の未来のようだった。
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