笑顔の君は何想ふ



 黄瀬との一件があってから数日が経ったけれど、宣言どおり、黄瀬は明石に関わらなかった。

 僕自身の生活も変わることなく、あの時以降は明石とは会話をしていない。ただ、彼の感情円は日ごとに元の色に近づいているし、クラスメートの感情円も今までよりも様々な色を示すようになった。

 どうやら、僕の頑張りは無駄じゃなかったらしい。一度は辞めた空手だけど、もう一度始めるのもいいかもしれない。




 昼休憩。


「一年三組、一色涼夜君。至急職員室まで来て下さい」


 変わらないメンバーでお昼ご飯を食べていると、校内放送で名前を呼ばれた。

 何かしたっけな……。

 考えてみるも、ここ数日で変わったことといえば、黄瀬との一件くらいだ。もしかしたら、クラスの誰かが先生に言ったのだろうか。

 食べかけの弁当を閉じ、早足で職員室へと向かうと担任の先生が入り口の前で、電話の子機を片手に手招きしているのが見えた。


「何かあったんですか?」

「今、一色のお母さんから電話がかかってきてな。急ぎの用事だから呼んだんだ」


 職員室の中にある応接室のような場所に連れられ、子機を渡される。その部屋にはソファが向かい合って二つあるだけで誰もいない。


「先生は外に出てるから、落ち着いたら返してくれればいいからな」

「はあ……分かりました」


 落ち着いたら……? どういう意味だろう?

 先生が部屋から出て行くのとほぼ同時に、受話器を耳に当てる。


「もしもし? 母さ──」

「涼夜! お父さんが!」


 僕の言葉を遮って響いてきたのは、母親の慟哭だった。


「父さんに何かあったの?」

「とりあえず迎えに行くから! 帰る準備をして校門にいて!」

「え? 迎えに──」


 くるってどういうこと?

 僕の質問などお構いなしに、電話が途切れる。父さんに何かあったのだろうけれど、肝心なことは何一つ分からなかった。

 応接室から出ると、先生がすぐにやってくる。母親が迎えに来ると言っている、と伝えると、早退届はあとでいいから早く行ってやれ、と言われた。どうやら、先生は母親から話を聞いているらしい。

 何が起きているのかよく分からないが、とりあえず鞄を取りに行こう。事情は車の中で、母さんに聞けばいい。

 教室に戻って鞄を回収する。一緒に弁当を食べていた数人に、早退することを伝えてから校門へと向かった。




 僕が校門に着いたときには、母親の車はすでに停まっていた。後部座席に荷物を放りこんで、助手席に座る。

 いつもよりも速く走る車内の中で、母親に話を聞いた話をまとめると、こういうことだったらしい。

 ついさっき病院から、父さんの容態が急変したと連絡が来たこと。

 僕には言ってなかったけれど、医者からは、余命一年と宣告されていたこと。

 おそらく、今日がヤマだということ。


「お医者さんは、まだ大丈夫って言っていたのに……」


 感情円を見た限り、あと一年も持つような濃さじゃなかった。だから、僕はいつこの時が来ても大丈夫なように覚悟をしていた。

 医者からは、まだ大丈夫だと言われていたのか……。それで母さんはこんなにも動揺していたのか……。

 明石を助けて良かった。

 もしも見て見ぬフリをしていたら、今、僕は父さんに会いに行くことができなかったかもしれない。

 父さんの言うような、人を助けることのできる人間になる。

 この目は、そのためにあるはずだから。




 病室に入ると、たくさんの管につながれたまま、父さんは眠っていた。痛みはないのか、安らかな顔のままだ。死んだように眠っている、というのは、今のような状況を言うのだと思う。

 眠ったままの父さんの感情円は、辛うじて橙色だと分かるほどに薄くて、今にも消えてしまいそうだ。


「手を握ってあげていて下さい」


 看護師さんがそう言ってくれたので、母さんと一緒に、父さんの左手に自分の手を重ねる。

 骨と皮しかないゴツゴツの手だったけれど、その手は熱を帯びていて、父さんが今も病気と闘っていることを証明していた。


 ──父さん。僕も頑張ったよ。まだ一人だけどさ、人の役に立てたんだ。これから、もっともっとたくさんの人を助けるよ。天国があるのかどうかは分からないけどさ、もしもあるなら見ていてくれよ。


 父さんに伝わるかどうかは分からないけれど、報告と宣言を兼ねて、心の中で呟く。今も父さんは寝たままで、当然返事はなかったけれど、微かに感情円が変化したのを僕は見逃さなかった。


「………………白」


 思わず口から声が漏れてしまう。

 一瞬、色が薄くなってきたから、白色に見えたのかとも思った。だけど、違う。ほとんど透明に見えるけれど、父さんの感情円は確かに白色だった。


 ──なあ、父さん。父さんは今、どんな気持ちなんだ? 白色が示す感情は、僕にも分からないよ。教えて欲しいよ。目を覚まして、僕よりも大きな手を頭に乗せて、いつもみたいに話してくれよ。

 覚悟はしていたはずなのに、両目から落ちた雫がベッドを濡らしてしまう。




 その後、父さんが目覚めることは決してなかった。

 僕の話を、唯一信じてくれた人はいなくなった。

 だけど、怖くない。

 父さんの言うとおりに人助けをすれば、僕がピンチになっても必ず助けてくれる人がいるはずだ。

 だから、僕は怖くない。
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