笑顔の君は何想ふ



 父さんのお通夜やお葬式があったため、二日間学校を休んだ。もうすぐ中学校に入って初めての、中間テストがある。二日分の授業内容を、誰かに見せてもらわないと。


「おはよう。悪いけどさ、昨日と一昨日のノート見せてくれない?」


 教室に入ってすぐに、普段一緒に弁当を食べている友人に声をかける。そいつは僕と目が合うと、ほんの少しだけ目を大きくした。


「……ごめん。俺も休んでたから」

「あ、そうだったのか。なら仕方ないな。他を当たってみるよ」


 すごい偶然もあるもんだ。たまたま一緒の日に休むなんて。

 普通の人なら、信じただろう。あとで欠席表を見れば分かる話なんだけど、今のところは信じたはずだ。だけど、僕の目はそんなことを許さなかった。

 あいつ……嘘……ついてたな。

 嘘をつかない人なんていないし、嘘をつかれたことはどうでもいいんだけど、どうしてあんな嘘をついたんだ? すっごい字が下手とか……って女の子じゃないし、そんなこと気にしないよな……。


 その後も、何人かに声をかけたものの、ことごとく断られた。

 最近はほとんど話していなかった拓也が、最終的に貸してくれたのだけど、どうして皆に断られたのかはよく分からなかった。

 その日は、不可解なことがいくつも起きた。

 体育が終わって戻ってくると、着替えを乗せていた机が倒されていた。僕以外の机は倒れておらず、やけに不自然な状態だった。

 昼休憩には、いつも一緒に弁当を食べているやつらが、全員購買へ行ってしまった。誰か一人が買いに行くことはたまにあったけれど、二人以上買いに行くことなんて、今まで一度もなかったのに。

 その他にも、些細なことなんだけど、不可解なことはいくつもあった。でも、その日は深くは考えずに帰宅することにした。

 僕の身に何が起こっているのか、決定的になったのは次の日だった。




 二日連続で、全員が購買に行くなんておかしい。

 昨日と同じように、僕は一人で弁当箱を広げていた。

 何だか、クラスメートから避けられているような気がする。でも、周りの人からは、悪意や敵意を感じないんだよな。皆、無関心って感じが──。


 ドシン。


 と、広げていた弁当箱が、どこからやってきたのかは分からないけれど、サッカーボールによって押しつぶされていた。僕の席は、教室のほぼど真ん中にあるから、事故とは考えにくいんだけど。

 ボールが飛んできたであろう場所に顔を向けると、そこには明石イジメの主犯である黄瀬達と──


「明石……?」


 どうして黄瀬と一緒に……?


「ナイスゴール。やるじゃねえか明石。お前バスケの才能あるんじゃねえ?」

「いや……そんなことないです」

「おいおい、俺ら友達だろ? そんな他人行儀に話さないでくれよ。もっとフランクにいこうぜ。フランクによ。ほら、もう一発いけよ」

「分かりま……分かったよ」


 黄瀬の手から、明石へとサッカーボールが優しく渡される。

 つい先日まではありなかった光景に、脳の処理が追いつけない。どうして黄瀬と明石が? 友達って何だよ?

 分からないことばかりが留めどなく溢れ出てきて、全く考えがまとまらない。

 ただ一つ分かったことは、このボールは……明石が投げたということだけだ。


「おい、黄瀬。お前はもう、明石に関わらないんじゃなかったのかよ?」


 小刻みに震えている腕を体の後ろに隠し、吐きそうな気持ちを押さえつける。精一杯に強気なフリをして、僕は黄瀬に問いかけた。


「ああ? お前何言ってんだ? 俺はよ、『明石を攻撃しねえ』っつたんだよ。なあ、明石。俺はあれから、お前に何かしたか?」

「……いや、してないです」

「俺がこいつと仲良くして悪いのか?」


 仲良く……? 散々いじめておきながら、今さら友達になんてなれるわけないだろ。


「おい明石、黄瀬に何されたか忘れたのかよ!」


 前に人が立っているせいで、明石の感情円は見ることができない。だけど今、明石の心は黄瀬に恐怖を抱いているだろう。僕がいない間に何があったかは分からないが、僕は必ずあいつを助けてやる。


「心配すんな! 何があっても僕が守ってやるからさ!」

「……」

「大丈夫だ! こう見えて、僕は強いからさ」

「……」


 明石からの返事はない。だけど、きっと大丈夫だ。

 強く、優しく、迷いなく。そう、強く、優しく──


「……おい、明石」


 唸り声のように低い、黄瀬の声が静まり返った教室に響いた。小さいものの力強いその声は、まるで爆弾が投下されたかのように、クラス中の背筋を凍らせた。


「……」


 言葉を発さなかったものの、明石の答えは一目瞭然だった。

 小さくステップを踏んだ後、ジャンプしながら放られたボールは、綺麗な弧線を描いて、一球目と寸分違わぬ位置に落下した。二球目の衝撃には耐えられなかったのか、弁当箱は床へと落ちる。

 だけど、今は弁当箱のことなんてどうだっていい。そんなことよりも、ジャンプした瞬間に見えた感情円が僕の頭から離れない。


「……明石? ……何でだよ」


 何で、何でお前がそんな色を僕に向けるんだよ。僕はお前の味方だろ? なのに、なのに何で……。


「ははっ! ざまあねえなリョーヤ! お前は山羊だよ! 明石に捨てられた山羊だ! なあ、明石!」

「……あ、明日から……は、お前がターゲット……だ。覚悟しろよ!」


 僕を指差して、明石は言い放つ。

 やめてくれ。

 そんな色を見せないでくれ。

 お前の……明石の臙脂色なんて見たくない。


「つーわけだリョーヤ。明日からよろしくな?」

「あああああああ!」


 もう無理だ。これ以上、この教室にいることなんてできない。

 床に落ちた弁当箱を回収することもせずに、鞄だけを持って、僕は教室から飛び出した。




 何が強く優しく迷いなくだ。

 何が人を助ければ、自分を助けてくれるだ。

 そ。いや、んなのは理想論だ。綺麗事だ。

 他人を助けることにメリットなんてない他人と関わることに意味なんてない。

 勉強なら家でもできる。高校に行かずとも、高卒認定試験に合格すればいい。

 どこまでも自分本位な連中が集まった、あんな掃き溜めのような場所にいる必要なんてない。




 この日以降、僕は学校に行っていない。

 父さんがいなくなって、心が病んでいた母さんは何も言わなかった。

 一年生のうちは、何度か担任が家にやってきて、学校に戻るように言われた。だけど、二年生になって担任が変わると、誰もやってこなくなった。

 中学校に行かなくなって二年が経過しても、学校に行きたいという気持ちは全く湧かなかった。

 一度だけ母さんに、高校には行かないの? と尋ねられたけれど、


「自分で勉強して、高卒認定試験に受かる」


 そう言った。母さんはそれ以降は何も言っては来なかった。僕が学校に行かなくなったきっかけを、母さんは知らない。今も知らないと思う。もしかしたら、父さんとの別れが原因だと思っているんじゃないだろうか。

 もう二度と、学校に通うつもりはなかった。

 だけど、ある日ふと見たサイトに、こう書いてあった。


『大学は人との関わりが浅い場所であり、深い場所です。ほとんどの人と会話をすることもなく卒業する学生もいれば、たくさんの人と関わって、様々なことを学ぶ学生もいます』


 そのサイトが意味するところは、だから人と関わろう! ということなんだろうけれど、僕からしたら関わりが薄いのは好都合だった。

 大学に行くと言ったとき、母さんは少しだけ笑っていた。

 僕を知っている人と会わないようにするため、地元から離れた大学を選び、今年の春に入学し──

 そして、彼女に出会った。
 彼女と出会って、僕は知ってしまった。僕はヒーローになる資格なんてなかったということに。僕が目指したものはヒーローなんかじゃなかった。いや、違う。
 ヒーローを目指した僕が、本物のヒーローになれるはずなんてなかった。
 僕は褒められたかった。感謝されたかった。
 けれど、そんなのは自己満足の偽物でしかない。

 本物のヒーローってのは行動した結果、なっているものだった。
 東堂香織があの教室にいたならば、標的が自分になったとしても笑うだろう。他の人が幸せになって良かったと。もしかしたら、彼女がいたならば明石が苛められることもなかったのかもしれない。

 それくらい、彼女は特別な人間だ。





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