笑顔の君は何想ふ



 力をなくした僕の手を振りほどき、彼女は今も泣き叫んでいる少女達の元へと駆けつける。危険を冒そうとする東堂を、止めるべきかどうか考えが纏まらないまま、東堂の後を追う。


「お友達はどこにいるの? どうしてあなた達と一緒に逃げなかったの?」


 唐突に現れた僕達の姿を見て、少女の表情は少し強張った。しかし、すぐに事の成行を説明してくれる。

 嗚咽交じりの説明を整理すると、『由美』がトイレに行っている間に、火災報知器が作動したらしい。一階のキッチンでは既に、収拾がつかないほど火が回り初めていたらしく、二階にいた彼女達は慌てて避難したようだ。しかし、いっこうに『由美』が店内から出てこず、閉じ込められているのかも、ということらしい。


 便所の中にも火災報知器はあるはずだし、火災に気付いていないとは考えにくい。何らかの理由で、逃げたくても逃げることのできない状況に陥っているのだろう。

 消防車は既に呼んでいるだろうけど、今のところ近づいてきている気配はない。このままだと、十中八九助からない。だけど、燃え盛る店内に飛ぶ込むのは……。


 ……そんな勇気は、僕にはない。

 もし、建物が崩れてきたら?

 火に囲まれて閉じこめられたら?

 床が崩れてしまう可能性だってあるのに。

 人を助けたいとか、ヒーローになりたいなんて言ったところで、所詮僕は口先だけの偽物だ。


 凍りついたように足が動かない。

 きっと誰かが助けてくれるさと、他人任せでいる自分がいる。

 誰もがそんなものだろう。

 見ず知らずの他人を助けるために、自分の命を天秤に乗せることなんてできない。




「二階のトイレね! 分かったわ!」




 ──なのに、彼女は止まらない。

 見ず知らずどころか、彼女にとって敵と言ってもいい人を、救うことを躊躇わない。

 近くの住民と店員達の一部が、少しでも被害を小さくしようとバケツリレーをしている。その列に割り込んで、東堂はバケツを手にした。

 水がたっぷり入ったバケツを頭上に掲げ、その中身を引っくり返す。唖然として口を開く人達を尻目に、最早原型を失いつつある店内へと彼女は飛び込んだ。


「クソッ……!」


 何をやっているんだ僕は。

 自分よりも年下の彼女に任せて、自分は見ているだけだなんて。これでは、イジメを傍観していたクラスメイトと一緒じゃねえか。

 他人のために、自分の命をかけるなんてバカらしい。なら、僕は東堂のために命をかけよう。僕の憧憬であるあいつを助けるためなら、命をかけるのも悪くない。
 偽物でも構わない。僕は東堂を守る、ただそれだけのためにヒーローになろう。


 そう自分に言い聞かせて、運ばれているバケツを奪い取る。勢い良く引っくり返すと、冷たい水が服に吸い込まれていき、体の熱が奪われていくのを感じた。これから灼熱地獄に飛び込むのだから、寒いくらいでちょうどいい。

 鉄砲玉のような勢いで突入し、二階へと続く階段をかけ登る。痛みを含んだ熱気が僕の肌へと襲い掛かる。水をかぶったため、衣服が発火することはないだろうけど、煙を長時間吸うわけにはいかない。実際、家事で命を落とす人の大半は、火傷ではなく窒息死だ。

 灰色というよりも黒色に近い煙が立ち込めているせいで、視界があまりよくないものの、店内はそこまで広くはない。一分とかからずに、二階の便所まで辿り着いた。


「涼夜君!?」

「東堂! 見つかったのか!?」


 女子トイレの前では、長い襟足を服の中に入れ込んだ東堂の姿があった。髪の毛は発火する可能性があるのでその対策だろう。


「ええ……だけど、私一人で運ぶのは無理そうだったから、涼夜君が来てくれて助かったわ」


 東堂の視線の先には、個室トイレの中で座っている少女の姿があった。東堂曰く、火災に気付いて逃げようとしたときに、発火した掃除用具が倒れてきて、足を怪我したらしい。少女の右足から、血が吹き出しているのが見える。這って進むこともできただろうけれど、床には様々なものが倒れていて危険だ。それで誰かが助けに来てくれることを信じて待っていたのだろう。


「ほら、乗って。東堂! 前を歩いて、出来る限り安全な道を教えてくれ。いつ建物が崩れるかも分からないから、さっさと出るぞ」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにした少女を背中に乗せて、僕は立ち上がる。足元に障害物の少ない場所を選んで歩く東堂の後ろを、出来る限り早足でついていく。


「あ、ありがど……ありがどう、ございまず……!」


 階段へと差し掛かったときに、僕の耳元で少女が呟いた。恐怖から解放されたその声は、涙混じりで濁音まみれだ。


「お礼なら、あいつに言ってやってくれ。僕一人なら、助けになんて来なかった。あいつが、東堂があんたを助けたいって言うから来たんだ」

「どうどうさんが……」


 それ以降、彼女は何も言わなかった。今、彼女が何を考えているのかは分からない。だけど感情円を見なくとも、何となく大丈夫な気がした。これから先、東堂と仲良く歩く姿が見られる。
 ──そんな気がした。




 店内から出た僕達を出迎えたのは、鳴り止まない拍手──ではなく、到着したばかりの消防車と救急車だった。足を怪我している少女はもちろん、ほとんど外傷のない僕と東堂も救急車に乗せられる。

 病院で簡単な検査をしたあと、一日だけ入院することになった少女を置いて、僕と東堂は解放された。


「パパが迎えに来てくれるらしいわ! すっごく怒られちゃった!」

「そりゃそうだろうよ……」


 僕達が病院に運ばれたあと、テレビでは僕達が映ったらしい。野次馬の一人が、携帯電話で動画を撮っていたのだろう。炎に包まれた店内へと飛び込む、僕と東堂がばっちり映っていた。

 それを見た剛毅さんは、大慌てで東堂に電話してきたわけだ。


「死ぬかもしれなかったのに、お気楽だなお前は」

「だって死ななかったもの! ほら! 涼夜君も笑いましょう! 笑っていれば、皆が幸せになれるのよ!」


 笑っていれば、皆が幸せになれる……か。こいつを見ていると、何だか本当にそんな気がしてくる。


「東堂」

「なあに、涼夜君?」

「お前は何想う?」


 彼女の気持ちが知りたい。

 その純白の心を。


「私はいつだって、楽しいことを考えているわ! だって……未来は希望に満ち溢れているもの! だから私は笑うの! これから先に、うんっと楽しいことが待っているから!」


 そうだよ。

 簡単なことだった。

 僕が気付いていなかっただけで、本当に簡単なことだった。

 黒い感情円が『絶望』を表すのなら、白い感情円が表すものは決まっている。

 父さんは最期まで、僕のことを思ってくれていたらしい。僕の未来が明るいものになることを祈ってくれていたらしい。


 なあ、父さん。

 ちょっとだけ遠回りしたけどさ、僕はまた頑張るよ。

 だって、未来は希望に溢れているらしいからさ。




 白色、それは『希望』だ。
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