笑顔の君は何想ふ
最終章 性善説
火事の日から、今日で一週間が経過した。
後になって分かったことだが、あの火事は明確な悪意を持って起こったことだった。世間を騒がしていた放火魔は、あの事件をきっかけに逮捕された。動機は特になく、飲食店ばかりを狙っていたのも、人が多そうだからということらしい。
あの日以来、二日に一度は必ずあった東堂からの連絡がぱったりと途絶えた。出会ってからほぼ四か月の間、途切れることなく毎週土曜日に行われていた『世界を笑顔にする散歩』は、何の前触れもなく終了した。僕からあいつに連絡したことは一度もないため、あいつから連絡が来なくなった時点で、僕達の関係は終わりを迎えることになる。
おそらく、東堂のやつは上手くクラスに溶け込んだのだろう。僕が絵空事だと思っていた、笑顔の伝染というものをあいつは証明した。他人を笑顔にすると自分も笑顔になれるということを。
高校に友達ができたから、僕と一緒にいる必要がなくなったわけだ。これでようやく、ゆっくりと休日を満喫できるようになる。かつては悪意を向けていた彼女達が、これからはあいつを笑顔にしてくれるはずだ。
元々、大企業の社長令嬢と僕みたいな失敗作が、共に時間を過ごしていたことが不自然だった。
これで全部解決だ。
あいつには友達ができたし、僕はようやく面倒事から解放された。
全部、全部収まる場所に収まったはずなのに、なぜだか腑に落ちない自分がいる。
「……考えても仕方ねえや」
今日は昼から授業がある。少し早いけれど、今のうちに大学内の食堂で昼飯を済ましておこう。あまり遅くなると、授業が終わった学生が流れ込んでくるため混雑する。
そう思い、部屋と自転車の鍵を持って、リュックサックを背負う。そして、ジャケットのポケットに携帯電話を入れた。
汗をかく間もなく食堂に到着し、窓際にある二人席を陣取る。お昼にはまだ早いため、人の数は少ない。二人席を一人で使っても問題ないだろう。
水で薄めているため、スープの味が微妙なラーメンを頼む。味が微妙なだけあって、価格が二百五十円と安い。とにかくお腹を膨らませたいときに、ラーメンのお世話になることが多かった。
レジを通したあと荷物を置いた席に戻ると、一人の少女が座っていた。長身を際立たせていた長い髪はバッサリと切られ、バレーボール選手のような短髪になっている。夏休みが明けてから何度か同じ講義だったこともあったけれど、面と向かって話すのは彼女に告白されたあの日以来だ。
「や、一色君。ちょうど荷物置くところ見ていたからさ。私も一人なの。ご一緒していい?」
「あ、えっと」
堂本姉は出会った頃と変わらない様子で、僕に話しかけてくれる。だけど、僕はどう対応すればいいのか分からず、言葉に詰まってしまう。
せっかく彼女が気を遣ってくれているのに、僕が戸惑ってどうする。
彼女が吹っ切れているわけじゃないと分かってしまうだけに、余計に申し訳なくなる。
「ああ。大丈夫。堂本さんは弁当?」
出来る限り平静を装ったつもりだけど、いつもよりも少しだけ声が高くなっていることが自分でも分かる。どうやら僕は緊張しているらしい。
「どうせ二人分はいるからさ。自分の分も作るのも変らないし」
だけど、堂本姉の言葉を聞いて、緊張なんてものはどこかへ飛んでいってしまった。
「二人分いる……ってことは、堂本君は……」
「うん。今も学校に行っているよ。学校が始まってすぐに、怪我だらけで帰ってきてさ、ビックリしちゃったよ。学校の先生からも電話がかかってくるし。先生が言うには、クラスの子と殴り合いの喧嘩したんだってさ。で、それ以降は楽しく過ごしているみたい」
結局、彼は闘うことを選んだのか。
僕が勧めた道じゃなく、東堂の示した道を。
綺麗に鋪装された道じゃなく、でこぼこだらけの道を歩くことを。
「すごいよね。東堂さん」
ここにはいない、あいつの名前を堂本姉は口にする。
「すごいのはあいつじゃなくて、堂本君だろ」
「そりゃあさ、優太も頑張ったけど、きっかけをくれたのは東堂さんだよ。一歩踏み出すのって、すごく勇気がいることだから。東堂さんが背中を押してくれていなかったら、優太は今も苛められていたか、学校に通っていなかったと思う。だから、東堂さんに伝えておいてくれる? ありがとう、って」
どれだけたくさんの人を笑顔にすれば、あいつは満足するのだろうか。あいつと出会った人全員が、綺麗な心になっていく。まるで、あいつの純白を分け与えられたかのように。
「悪いけどさ、もう東堂と会うことはないと思う」
「え!? 何で!? 喧嘩でもしちゃった? ダメだよ一色君! 早いうちに謝っておかないと!」
なぜか分からないが、僕が悪いことになっている。
「いや別に喧嘩はしてないけどさ……。あいつにもようやく、友達ができたんだよ。だから僕はお役御免ってわけ」
「そう……東堂さんに言われたの?」
「そういうわけじゃないけどさ……連絡が来ないってことは、そういうことだろ」
「それ、本気で言ってる……?」
「ああ」
現に今までは、あいつから連絡してきたのだから。しかし、僕の言葉を聞くなり、堂本姉の感情円は徐々に薄い赤色に変化していく。
「一色君のバカ! アホ! 茄子!」
なぜ、茄子……? あの紫色の野菜に、罵倒の意味はなかったと思うけれど……。あ、おたんこなすと言いたかったのかな。
「急にどうしたんだよ」
いつだって穏やかな態度だった彼女の、罵詈雑言(というには可愛いものだけど)に少し驚く。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「あんなに一色君に懐いているあの子が、友達ができたくらいで別れるわけないでしょ!」
別れるって……付き合っていたわけじゃないんだけど。その言葉だけだと、僕が振られたみたいな感じに聞こえる。
「たぶんだけど、あの子は一色君から連絡してくれるのを待っているんだよ」
「あいつが待つことなんてないと思うけどな」
考えるよりも行動するからなあいつは。
「一色君はいいの? 東堂さんと一緒にいれなくても」
「……別に。今までの生活に戻るだけだし」
「それは嘘だよ」
ただの目しか持たない彼女は、やけにはっきりと言い切る。
僕が嘘をついていると。
「悔しいけどさ、東堂さんといるときの一色君は、楽しそうだったもん。私は大学に入学してから、ずっと一色君のことを見ているけど、あの子といるときの一色君は本当に楽しそうだった」
「………………」
「ずっと一色君のことを好きな私が言うんだから、間違いないよ」
僕は楽しかった……のか? あいつといることが? 確かに、僕はあいつのことを尊敬していた。僕が昔目指したものを全部持っていたから。だから、近くであいつの生き様を見たかった。
ただ、それだけだ。
──ダウト。
そんな声が聞こえた気がした。
俯いて心臓の位置に目を向ける。すると、そこには一度だって見えなかった感情円の姿がある。
真っ青に塗りつぶされた感情円は、その輪郭をはっきりとさせてはおらず、まるで嘘吐きな僕を弾劾しているかのようだった。
「……ありがとう堂本さん」
そうだ。
そうだった。
僕はあいつの──東堂香織の笑顔が見たかった。
出会う人全員を幸せにする、あの笑顔を。そうすればいつか、僕も変わることができるかもしれないと思ったから。
「どういたしまして。……もし本当に、東堂さんに別れを告げられたときは、私のところに来てね。いつでも歓迎だから」
冗談半分、本気半分でそう言いながら、彼女は僕に微笑んでくれる。
「じゃあ私、今日はもう授業ないから帰るね!」
お弁当箱を鞄に仕舞うと、振り返ることなく堂本姉は食堂から出て行ってしまう。その背中を目で追うことなく、空になった食器を返却口に返す。
今日の夜、東堂に連絡してみよう。
もしかしたら返事はないかもしれないけど、このまま待っているよりはずっといい。
何だか、体が少しだけ軽くなった気がする。
堂本姉には感謝しないとな。
後になって分かったことだが、あの火事は明確な悪意を持って起こったことだった。世間を騒がしていた放火魔は、あの事件をきっかけに逮捕された。動機は特になく、飲食店ばかりを狙っていたのも、人が多そうだからということらしい。
あの日以来、二日に一度は必ずあった東堂からの連絡がぱったりと途絶えた。出会ってからほぼ四か月の間、途切れることなく毎週土曜日に行われていた『世界を笑顔にする散歩』は、何の前触れもなく終了した。僕からあいつに連絡したことは一度もないため、あいつから連絡が来なくなった時点で、僕達の関係は終わりを迎えることになる。
おそらく、東堂のやつは上手くクラスに溶け込んだのだろう。僕が絵空事だと思っていた、笑顔の伝染というものをあいつは証明した。他人を笑顔にすると自分も笑顔になれるということを。
高校に友達ができたから、僕と一緒にいる必要がなくなったわけだ。これでようやく、ゆっくりと休日を満喫できるようになる。かつては悪意を向けていた彼女達が、これからはあいつを笑顔にしてくれるはずだ。
元々、大企業の社長令嬢と僕みたいな失敗作が、共に時間を過ごしていたことが不自然だった。
これで全部解決だ。
あいつには友達ができたし、僕はようやく面倒事から解放された。
全部、全部収まる場所に収まったはずなのに、なぜだか腑に落ちない自分がいる。
「……考えても仕方ねえや」
今日は昼から授業がある。少し早いけれど、今のうちに大学内の食堂で昼飯を済ましておこう。あまり遅くなると、授業が終わった学生が流れ込んでくるため混雑する。
そう思い、部屋と自転車の鍵を持って、リュックサックを背負う。そして、ジャケットのポケットに携帯電話を入れた。
汗をかく間もなく食堂に到着し、窓際にある二人席を陣取る。お昼にはまだ早いため、人の数は少ない。二人席を一人で使っても問題ないだろう。
水で薄めているため、スープの味が微妙なラーメンを頼む。味が微妙なだけあって、価格が二百五十円と安い。とにかくお腹を膨らませたいときに、ラーメンのお世話になることが多かった。
レジを通したあと荷物を置いた席に戻ると、一人の少女が座っていた。長身を際立たせていた長い髪はバッサリと切られ、バレーボール選手のような短髪になっている。夏休みが明けてから何度か同じ講義だったこともあったけれど、面と向かって話すのは彼女に告白されたあの日以来だ。
「や、一色君。ちょうど荷物置くところ見ていたからさ。私も一人なの。ご一緒していい?」
「あ、えっと」
堂本姉は出会った頃と変わらない様子で、僕に話しかけてくれる。だけど、僕はどう対応すればいいのか分からず、言葉に詰まってしまう。
せっかく彼女が気を遣ってくれているのに、僕が戸惑ってどうする。
彼女が吹っ切れているわけじゃないと分かってしまうだけに、余計に申し訳なくなる。
「ああ。大丈夫。堂本さんは弁当?」
出来る限り平静を装ったつもりだけど、いつもよりも少しだけ声が高くなっていることが自分でも分かる。どうやら僕は緊張しているらしい。
「どうせ二人分はいるからさ。自分の分も作るのも変らないし」
だけど、堂本姉の言葉を聞いて、緊張なんてものはどこかへ飛んでいってしまった。
「二人分いる……ってことは、堂本君は……」
「うん。今も学校に行っているよ。学校が始まってすぐに、怪我だらけで帰ってきてさ、ビックリしちゃったよ。学校の先生からも電話がかかってくるし。先生が言うには、クラスの子と殴り合いの喧嘩したんだってさ。で、それ以降は楽しく過ごしているみたい」
結局、彼は闘うことを選んだのか。
僕が勧めた道じゃなく、東堂の示した道を。
綺麗に鋪装された道じゃなく、でこぼこだらけの道を歩くことを。
「すごいよね。東堂さん」
ここにはいない、あいつの名前を堂本姉は口にする。
「すごいのはあいつじゃなくて、堂本君だろ」
「そりゃあさ、優太も頑張ったけど、きっかけをくれたのは東堂さんだよ。一歩踏み出すのって、すごく勇気がいることだから。東堂さんが背中を押してくれていなかったら、優太は今も苛められていたか、学校に通っていなかったと思う。だから、東堂さんに伝えておいてくれる? ありがとう、って」
どれだけたくさんの人を笑顔にすれば、あいつは満足するのだろうか。あいつと出会った人全員が、綺麗な心になっていく。まるで、あいつの純白を分け与えられたかのように。
「悪いけどさ、もう東堂と会うことはないと思う」
「え!? 何で!? 喧嘩でもしちゃった? ダメだよ一色君! 早いうちに謝っておかないと!」
なぜか分からないが、僕が悪いことになっている。
「いや別に喧嘩はしてないけどさ……。あいつにもようやく、友達ができたんだよ。だから僕はお役御免ってわけ」
「そう……東堂さんに言われたの?」
「そういうわけじゃないけどさ……連絡が来ないってことは、そういうことだろ」
「それ、本気で言ってる……?」
「ああ」
現に今までは、あいつから連絡してきたのだから。しかし、僕の言葉を聞くなり、堂本姉の感情円は徐々に薄い赤色に変化していく。
「一色君のバカ! アホ! 茄子!」
なぜ、茄子……? あの紫色の野菜に、罵倒の意味はなかったと思うけれど……。あ、おたんこなすと言いたかったのかな。
「急にどうしたんだよ」
いつだって穏やかな態度だった彼女の、罵詈雑言(というには可愛いものだけど)に少し驚く。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「あんなに一色君に懐いているあの子が、友達ができたくらいで別れるわけないでしょ!」
別れるって……付き合っていたわけじゃないんだけど。その言葉だけだと、僕が振られたみたいな感じに聞こえる。
「たぶんだけど、あの子は一色君から連絡してくれるのを待っているんだよ」
「あいつが待つことなんてないと思うけどな」
考えるよりも行動するからなあいつは。
「一色君はいいの? 東堂さんと一緒にいれなくても」
「……別に。今までの生活に戻るだけだし」
「それは嘘だよ」
ただの目しか持たない彼女は、やけにはっきりと言い切る。
僕が嘘をついていると。
「悔しいけどさ、東堂さんといるときの一色君は、楽しそうだったもん。私は大学に入学してから、ずっと一色君のことを見ているけど、あの子といるときの一色君は本当に楽しそうだった」
「………………」
「ずっと一色君のことを好きな私が言うんだから、間違いないよ」
僕は楽しかった……のか? あいつといることが? 確かに、僕はあいつのことを尊敬していた。僕が昔目指したものを全部持っていたから。だから、近くであいつの生き様を見たかった。
ただ、それだけだ。
──ダウト。
そんな声が聞こえた気がした。
俯いて心臓の位置に目を向ける。すると、そこには一度だって見えなかった感情円の姿がある。
真っ青に塗りつぶされた感情円は、その輪郭をはっきりとさせてはおらず、まるで嘘吐きな僕を弾劾しているかのようだった。
「……ありがとう堂本さん」
そうだ。
そうだった。
僕はあいつの──東堂香織の笑顔が見たかった。
出会う人全員を幸せにする、あの笑顔を。そうすればいつか、僕も変わることができるかもしれないと思ったから。
「どういたしまして。……もし本当に、東堂さんに別れを告げられたときは、私のところに来てね。いつでも歓迎だから」
冗談半分、本気半分でそう言いながら、彼女は僕に微笑んでくれる。
「じゃあ私、今日はもう授業ないから帰るね!」
お弁当箱を鞄に仕舞うと、振り返ることなく堂本姉は食堂から出て行ってしまう。その背中を目で追うことなく、空になった食器を返却口に返す。
今日の夜、東堂に連絡してみよう。
もしかしたら返事はないかもしれないけど、このまま待っているよりはずっといい。
何だか、体が少しだけ軽くなった気がする。
堂本姉には感謝しないとな。