笑顔の君は何想ふ


「うわあ! ここが喫茶店なのね! 何だか神秘的な場所だわ!」

「……おい。あんまり騒がないでくれ」

 次から僕が入りにくくなるだろうが。

 大学の裏にある、知る人ぞ知る隠れた名店なんだぞここは。コーヒーが一杯二百二十円という学生に優しい価格。僕は話したことはないが、いろんな人の相談相手になっている温厚なマスター。そして一番重要なことは、マスターが大の本好きであり、店内の張り紙にはこう書かれていることだ。

『コーヒー一杯で本一冊歓迎!』

 いったいどこで利益を上げているのか不思議だけど、僕のような読書家にとってこの喫茶店は天国のような場所だ。
 店内には一体何年前の物なのかも分からないほど、厚みのあるブラウン管テレビが置いてあるものの、音量は小さめに設定されてある。どこまでも、読書家にとって居心地の良い空間だ。
 テレビでは、巷で騒がれている放火魔のニュースが流れている。なぜか飲食店ばかりをターゲットにしているようだ。

「何か飲むか? 一杯くらいなら奢ってやるぞ?」

「本当? じゃあ、この……エス、プレッソ? ってやつにするわ。ありがとう! えっと……どう呼べばいいかしら? 一色君? それとも涼夜君?」


 どうやら、君付けなのは確定事項らしい。

 お嬢様言葉だからあんまり違和感がないけれど、実はこの子敬語じゃないんだよな。

 別に気にしないからどうでもいいけどさ。


「……好きに呼んでくれ」

「じゃあ涼夜君で決定ね! 私のことは香織でいいわよ! 名前で呼び合った方が、早く仲良くなれる気がするもの!」


 え? いつの間にか名前で呼び合うことになっているんだけど。女子高生と話すのでさえ、ほとんど初めての僕に名前で呼べと?


「いや、いきなり名前で呼ぶのはあれじゃないか? その、ちょっと変っていうか」

「さっき好きに呼んでくれ、って言っていたじゃない。男の人は二言を言わないってパパが言っていたわよ?」


 随分と男らしいお父さんだな!


「いや、君が僕のことをどう呼ぼうといいけどさ……さすがに、僕が君を下の名前で呼ぶのはちょっと変かなって」

「そうなの? どうして?」

 彼女の言葉は、決して僕のことを非難しているわけではない。子供が不思議に思ったことを、親に尋ねるような感じだ。


「女の子が男を名前で呼ぶのはよくあることだけど、男が女の子を名前で呼ぶことは珍しいだろ? 付き合ってるカップルは別としてさ」


 中学と高校でのことは僕もよく分からないけれど、少なくても小学校ではそうだったし。大学でも、女子の名前を呼び捨てにする男はあんまりいない気がする。


「そういえばそうね。でも、どうしてかしら? 男の人が名前を呼ぶと何か起こるのかしら?」


 頭を抱えて考え始める彼女を横目に、エスプレッソを二つ頼む。


「……カップルじゃないと爆発したりするのかしら」


 しねえよ。

 何で爆発するんだよ。もしもそんなことになったら、世の中の幼馴染はほとんど爆発すると思うぞ。兄妹とかさ。


「お前のしたいことは、喫茶店で頭抱えることだったのか?」


 僕がそう言うと、はっと目を見開いて顔を上げる。というか、あの髪型は本当にどうなっているんだろう。前から見ると、ショートカットにしか見えない。


「そうだったわ! 今日は涼夜君とお話するために来ていたことを忘れていたわ!」

「だから、でかい声出すなって。他の客に迷惑だろうが」

「でも、今は誰もいないわよ?」


 それは言っちゃいけないぜお嬢さん。まじでこの店の経営は大丈夫なんだろうか……。


「普通はお客さんがいなくても、静かにするもんなの」

「普通? 私、その言葉はあまり好きじゃないわ。普通って言葉を誰が使い始めたのかしら?」


 そんなこと知らん。どこぞの日本人が使い始めたんだろ。

 というかまた考え込むのかよ。

 彼女は何か疑問に思うことがあると、そのことしか考えられなくなるらしい。天才とバカは紙一重と言うが……この子はどっちだろうか。

 たぶん、バカの方だろうな。


「どうぞ、エスプレッソです」


 頭を抱える少女と僕の間に、マスターがほんのりと湯気の立つコーヒーカップを二つ置いてくれる。


「ありがとうございます」


 小さく会釈してお礼を言うと、クッキーが数枚入った袋が差し出される。


「もしも良かったらこれを。君、よく来てくれている子だね。いつもこの席で本を読んでいるから、よく覚えているよ。珍しく女の子と一緒だからサービス」

「えっ、いや……あの、いいんですか?」

「いいよいいよ。それ、昨日の余りなんだ。さすがに商品として売るわけにはいかないからね」

「えっと、ありがとうございます。ほら、お前も礼言っとけ」


 いまだに、『普通』について考えている少女の肩を揺する。すると何の抵抗もなく、僕のリズムに合わせて、彼女の頭が壊れたロボットのように揺れる。


「どうかしたの?」


 こいつ人の話を全く聞いてねえな。


「ほら、サービスでクッキーもらったから礼言って」

「そうなの? ありがとう! えっと……おじさん!」

「ちょっ……! お前そこはさ、せめてお兄さんにしとけよ! すいませんマスター。こいつちょっと変わってて」

「ははは。元気で良い子じゃないか。大切にしてあげなさい。じゃあ、僕は仕事に戻るね」


 マスターなんか勘違いしていないか? 思わず感情円に視線を向けると、マスターの色は……緑色、つまり喜びだ。もしかして、僕に彼女が出来たと思っているのでは……?


「ねえねえ涼夜君。このクッキー美味しいわ!」


 人の話はろくに聞いていなくて、妙に正義感が強くて、好奇心旺盛なこいつが僕の彼女……?

 冗談じゃない。どっちかというと、子供と保護者だ。


「うっ! このコーヒー苦いわ!」

「そりゃストレートで飲んだらそうだろ。エスプレッソは砂糖をドバドバ入れて飲むものだからな」


 テーブルに備え付けてある砂糖をスプーンで山盛りすくって、自分のカップと彼女のカップに入れる。


「あ! 美味しくなったわ」

「だろ。ここのエスプレッソは美味い」


 ここの味の良さがわかるとは、こいつ中々良い趣味してるな。


「ねえ、私が今どう思っているかは分かるの?」


 不意に本題に入り、思わず彼女の目を見てしまう。彼女も真っ直ぐに僕の目を見ていて、彼女の視線に耐え切れなくなった僕は心臓の位置に浮かぶ円──感情円に目を向けた。


 純白。


 彼女の感情円は、やはり純白のままだった。この子には喜怒哀楽がないのか? いや、そんなわけないよな。さっき苦いって言いながら、しかめっ面してたし。けど、感情円はずっと純白なんだよなあ。

 二つの感情が混じっているときは、新しい色として現れるか、より強い感情の色になることが分かっている。

 他の感情よりも、白色が表す感情の方が強いってことなんだよな。


「正直に言うと、君の感情は分からない。他の人は大体分かるんだけど」

「どうして私は分からないの?」

「僕は感情の色を見ることができる。ただ、君は色が変わらない」


 僕は十八年間の人生で、ほぼ全ての色と感情をリンクさせている。だけど、唯一リンクしていない感情が白色だった。見たことがないわけじゃないし、珍しいわけでもない。ただ、死ぬ間際の人と赤ん坊でしか見たことがない。


「どこまで分かるの? さっき嘘は見抜いていたみたいだけれど」

「喜怒哀楽とか、悪意や敵意。あとは真偽の判断と……余命の短い人とか、自殺しそうな人は分かる」


 余命の短い人も自殺しそうな人も、感情円は薄くなるものの、この二つは区別することができる。

 余命の短い人は、感情円が縮小されていくように外側から薄くなっていく。しかし、自殺を考えている人は、ところどころ薄くなっていって穴だらけになっていくからだ。


「とても便利ね! そんなことができるなら──」

「便利なんかじゃない。こんなもの、何の役にも立たない」


 何の役にも立たなかった。この目は、超能力でも何でもない。ただの呪いだ。
 僕を一人にする、悪魔の呪い。この目は、人を遠ざける。そう、この目は──、


「そんなことないわ! だって、私は助けてもらったもの! あなたの目は、とても素敵なものよ! こうして、私達を出会わせてくれた、幸運の目!」


 僕を苦しめる悪魔の目。
 人を遠ざけつづけたこの目に、屈託のない少女の笑顔が映った。
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