笑顔の君は何想ふ



「どうしてそんなに暗い顔をしているの? 笑わないと幸せになれないのよ? 笑顔になるだけで、世界はこんなにも素晴らしいのに!」


 おっさんと話し始めて五分。僕の中で、一つ確信したことがある。

 東堂香織は相談相手に向いていない。

 冷静に考えれば当然の結果だ。善悪が欠如しているというか、危機感がないというか、人間として最低限持っているものが彼女には欠けている気がする。


「……笑うことなんてできないよ。もう、何もかもなくしたんだから……」


 おっさんの話をまとめると、こういうことだった。

 大学を卒業し、上々の企業に就職。大学時代から付き合っていた今の奥さんと結婚。子供も生まれ、順風満帆な生活を送っていたらしい。

 しかし、会社が突然の倒産。職を失い再就職先を探すも、四十を超えたおっさんを雇ってくれる会社は見つからず、家庭も火の車に。そして、奥さんに愛想を尽かされ、離婚の危機とのことらしい。

 まさに絵に描いたような転落人生だな。


「……仕事なんて何でもいいんだ。家に帰って、大切な家族がいるなら、それだけで満足なんだ。それ以外は何もいらないのに」

「仕事ってないものなんですか?」

「全くないってわけじゃないんだけどね……。娘を大学までは行かせてやりたいんだ。そう考えると、やっぱり最低限のお金が必要だから……」

「なるほど」


 これは正直、僕の手には負えなさそうなんだけど……。

 仕事を紹介することなんて僕にはできない。僕にできることは、おっさんを励ますことくらいだ。

 他人の悩みが分かっても、それを全部解決できるわけじゃない。もしもそんなことができるなら、自分自身の悩みは全て解決できるわけだし。

 雨が降る直前の、曇天のように重苦しくて陰鬱とした雰囲気が広がる。


「お仕事があればいいの?」


 そんな中、僕達に流れる雰囲気などお構いなしに、東堂が口を開いた。そんな光景に、何となくヤコブの梯子をイメージしてしまう。


「まあ……そうだね。仕事が見つかれば全部解決だけど……四十を超えた僕みたいなおじさんを雇ってくれるところなんて……」

「私、電話してくるわ!」


 おっさんの言葉を最後まで聞くことなく、東堂は店外へ出てしまう。ちゃんと戻ってくるよな? フラフラっとどこかに行ってしまいそうで怖い。蝶とか追いかけていきそうだし。


「あの子は……君の彼女かい?」

「いやいや、違いますよ。今日初めて会ったばかりです。僕は大学生ですけど、あいつは高校生ですし」

「そうだったのかい。あの子、いきなり声をかけてくるから、びっくりしたよ」


 デスヨネー。


「ははっ。どうしてもあなたの自殺を止めたいらしくて」

「自殺?」


 あっ、やべ。

 東堂に口止めしておきながら、自分が口を滑らせてしまった。


「いや、あれですよ。このままだと、自殺しかねない雰囲気だったからって意味です」

「ああ……そうだね。このまま離婚しちゃったら、生きる意味もないしね……」

「そんなこと言わないで下さい。自殺だろうが事故だろうが、いなくなったら一緒です。家族のことを考えてください」


 死んだ人だけが辛いと思わないでほしい。死ぬときは一瞬の痛みでも、残された方は、一生痛いのだから。例え離婚したとしても、おっさんが自殺したら奥さんも娘さんも悲しむに違いない。


「ちょっと! 涼夜君来て!」


 店の入り口から顔を半分だけ出した東堂が、僕を手招きしている。あいつはいったい何度言えば、店内で静かにできるようになるのだろうか。

 すいません、とおっさんに一言声をかけた後、キッチンで作業しているマスターにも頭を下げる。マスターは歯が見えるほどの笑みを浮かべて答えてくれる。なんだろうか……この、頑張れよ! と言わんばかりの笑顔は……。

 店から出ると、東堂は誰かと電話をしていた。しかし、僕の存在に気付くなり、携帯電話を耳から離した。


「はい、これ!」


 顔の前に東堂の携帯の画面が向けられる。通話中になっている画面には、『パパ』と表示されている。


「は!? 何でお前の親父さんと話さないといけないんだよ!」

「いいから出て頂戴。パパがお話したいらしいの!」


 再び突き出される携帯。

 えー……嫌なんだけど。今日初めて会った女の子の父親と話すなんて、もはや一種の拷問だろ。

 眼前には携帯が今も突き出されたままだ。ええい、ままよ!


「あ、もしもし、一色涼夜ですけど……」

『どうも香織の父です。時間がないから本題に入らしてもらうよ。君、人の感情が分かるらしいね。今、私が思っていることも分かるのかな?』


 東堂の子供みたいな甲高い声からは想像もつかない、重厚な声が電話ごしに聞こえてくる。

 あいつ人のことペラペラと喋りやがって。普通の親ならば、娘が頭のおかしい大学生に騙されていると考えるだろ……。

 当の本人は店先の花に話しかけてるし。あいつは何がしたいんだろうか……。


「あー、いや。顔見ないと、分かんないんですよ。それに、そんな詳しく分かるわけじゃないんで……」

『ほう……』


 やっべえよ! これ絶対怒ってるよ!

 どうしようか。携帯捨てて逃げようかな。

 あー、でもおっさんが自殺するのはできれば止めたいな。


『今、職に困っている人がいるから助けて欲しいと娘が言っていたが──その人のやる気を見ることはできるのかね?』

「………………は?」


 やる気?

 あのおっさんの?


「ええ、まあ……それくらいなら分かりますけど」


 質問して、色見れば一発だろうし。


『では、確かめてきて欲しい。そして、やる気があったのなら、その人に電話を変わってくれ』

「はあ……。分かりました」


 どういうことだろうか。やる気を確かめるくらいなら、簡単だからいいけどさ。


「あの、ちょっと聞いて言いですか?」


 電話を繋いだまま店内に入り、おっさんの前に座る。


「何だい?」

「もしも次の仕事見つかれば、どうしますか?」


 僕はおっさんの顔ではなく、感情円に目を向ける。


「もちろん全力で頑張るよ。家族を守るために」


 黒く穴だらけの感情円に、わずかに紫色が見える。

 紫は『やる気』や『決意』だ。この人は本当に家族のことを大切にしていることが、感情円からヒシヒシと伝わってくる。

 僕は手にしていた携帯電話をおっさんに渡した。


「出てください。用件は僕にもよく分かりませんが、悪い話ではないと思います」


 おっさんは少し不審な目で僕を見ながらも、携帯を手に取ってくれた。


「……はい。……はい。………え? 本当ですか!? はい。今からでもぜひ! はい! すぐに伺います!」


 何だ? 段々とおっさんの語気が強くなっているんだけど。何を話しているのかは分からないけれど、おっさんの顔も生気を取り戻しているように感じる。感情円を見たとき、僕は自身の目を疑った。

 穴が塞がっている。

 穴だらけだったおっさんの心が元に戻っている。感情円の色も黒色ではなくなっていた。

 穴だらけの心が元に戻ったのを見たのはいつぶりだろうか。もしかしたら、あの時以来かもしれない。


「では、失礼します!」


 通話が終わったのか、携帯電話が机の上に置かれる。

 おっさんは残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、僕に向かって勢いよく頭を下げた。


「……君! ありがとう! 今日はいますぐ行かなくちゃいけなくなったから、お礼はまた今度会った時にでもするよ!」

「え? あの、どういう……」

「本当にありがとう! あの女の子にもよろしく言っておいてくれ!」


 机の上に投げ出していた右手を取られ、力強く握手される。


「じゃあ僕は行くから! あ、これお金置いていくからさ、ごゆっくりね!」


 おっさんは鞄と椅子にかけていたスーツを持って、嵐のように消えてしまった。

 いったい何があったのか検討もつかず、ただ呆然と店の扉を見つめることしかできなかった。
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