笑顔の君は何想ふ
二章 ぼくら対せかい



 自由気ままで好奇心旺盛な、東堂香織と出会った日から早五日。

 彼女の連絡先は教えてもらったものの、彼女は僕の連絡先を知らない。そのため、あれから音沙汰なく、今までと変わらない平和な日常を僕は過ごしていた。


「んー、バイトまで時間もあるし、本買って店に行くか」


 大学の授業というのは、基本的に自由である。必ず履修しなければならない、必修という授業もいくつかあるけれど、ほとんどの授業はいくつかの選択肢の中から選ぶ選択必修だ。


 僕は東堂と出会った日を除いて、基本的に午前中に授業を固めている。一つは無駄に寝ないようにするためで、もう一つは、午後にアルバイトを入れようと思っていたからだ。

 そして、先日ついにアルバイトを見つけた。


「いやー、雇ってくれるのは嬉しいけどさ、あの店の経営は本当に大丈夫なんだろうな……」


 そう、あの喫茶店だ。

 大学の裏にあり、僕の行きつけでもある喫茶店。

 先日行ったときにカウンターで、アルバイトの情報紙を眺めていると、マスターが声をかけてくれた。


 時給八百円で、週三日。時間は要相談とのことだった。サークル活動もしていなければ、他にアルバイトの当てもなかった僕からすれば、願ったり叶ったりだ。すぐに履歴書を提出し、昨日が初出勤だった。


「マスターも良い人だし、客はそんなに来ないから忙しくないし最高だよな」


 大学前にある本屋に寄って、少し前に映画化された難病ものの小説を購入する。題名の意味を理解すると感動するらしいが、いったいどういうことなんだろうか。


 大学の中を横切って裏手に回る。交通量も多く、飲食店などが多い表通りと違って、こちら側は住宅街なので一日中静かだ。


「あれ、CLOSEになってる」


 営業時間なのにどうしたんだろうか。少し固くなっているドアノブを回すと抵抗なく回り、扉の上側に取り付けられている鈴の音が小さく響く。

 店内にお客さんは一人もおらず、マスターはキッチンでコーヒーを飲んでいる最中だった。


「プレートがCLOSEになってましたけど、どうかしたんですか?」

「今夜、貸切で予約が入っていてね。それの準備があるから、少し早目に閉店したんだ」

「へえ。喫茶店なのに貸切とかあるんですね」

「普段はしないんだけどね。ちょっと特例っていうか。さ! 調理は大体終わらせたから、キッチンの掃除を頼むよ。僕はケーキを作るから。少し早いけど、ちゃんとバイト代は出すからね」

「分かりました」


 ケーキ……誰かの誕生日会でもするのか?  特例って言ってたし、マスターの家族が来るとかか? そうなったら僕、超アウェーじゃね? その時は、動かざること山の如し作戦でいこう。……うん、どんな作戦か全く分かんねえな。

 皿の量から推測するに、来るのは五人くらいか? 五人くらいで貸切にできるとは考えにくいし、やっぱりマスターの身内かな。


「マスター。皿洗い終わりましたけど、どうすればいいですか?」

「じゃあ、一色君は休憩しておいてくれていいよ。たぶん二時間後くらいに来るからさ、それまでは本でも読んでくつろいでいて」

「了解です」


 いつもと同じ、入口から一番離れたテーブル席に座り、買ったばかりの本を取り出す。

 時折聞こえるマスターの調理音をBGMに、僕は本の世界へと沈んでいった。


 ***


 題名にこんな意味が……。

 予想を裏切る結末に、主人公の成長が分かるエピローグ。言葉では伝えきれないこの感動……!

 これは映画を見るしかない。もうレンタルショップに置いているだろうか。


「涼夜君は読書が好きなのね! 初めて会ったのも本屋の前だったし!」

「ん? ああ、本はいいぞ。現実は厳しいが本は優しい。東堂も読むべき──って東堂!?」


 目の前の席には、コーヒーカップ片手に座る東堂香織の姿があった。本に夢中で、いつから座っていたのかも知らないんだけど。

 一度帰宅してから来たのか私服姿だ。涼しげな雰囲気の白いワンピースは、彼女の感情円と同じ色で、とても似合っている。

 僕はといえば、どこで買ったのかもよく分からないTシャツにジャージのズボンと、彼女とは全くと言っていいほど釣り合わない格好だ。


「涼夜君ったらひどいわ! せっかくアドレスを教えたのに、ちっとも連絡してくれないんだもの! 待ちくたびれちゃったから、私の方から来たわ! 今日は携帯電話を持っているでしょう? 涼夜君の連絡先を教えて欲しいの!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。何で僕がここにいるって知ってるんだよ?」

「え? だって、店長さんがここで働いているって言ってたもの!」


 マスター……。何個人情報漏らしているんですか……。

 しかも、何かすっげえいい笑顔で親指立ててやがるし。やってやったぜ! みたいな感じで。


「じゃあ今日、ここ貸切にした客って……」

「私達よ! 今日はパパの誕生日なの!」


 まさかのお父さん襲来! やばい、帰りたくなってきた。そんな考えが頭をよぎった瞬間、店内に冴えない風貌の男女と、小学校に入学しているかどうか微妙なラインの女の子が、手を引かれて入ってきた。

 男の人はマスターに軽く頭を下げた後、僕達の座るテーブルへと向かってくる。


「こんにちは。香織の父親、東堂剛毅です。後ろにいるのは妻の美里と、娘の澪です。先日は香織がお世話になったみたいだね。ありがとう」


 見た目こそ冴えないものの、剛毅さんのオーラというか雰囲気は、大企業の社長に相応しいものだ。電話ごしに聞いたときと同じで、その重厚な声音に少し萎縮してしまう。


「いえ、あの、こちらこそ。ありがとうございます」


 何に対してのありがとうなのか、自分でもよく分からないけれど、とりあえず頭を下げておく。その時、剛毅さんの感情円に目を向けた。


 桃色……『自信』か。


 普段の生活の中で、この色を見ることは少ない。スポーツの試合会場に行けば、かなりいるとは思うけどさ。
 これぐらい自信がないと、大企業の社長は務まらないということだろうか。というか、やけに若くないか? 見たとこ三十ちょっとくらいな気がする。
 東堂が高校三年生だから、十八歳として……十八で出産していたら三十六歳……か。見た目はもっと若く見えるけどな。意外と歳なのか?


「ねえ、パパ! 早く始めましょう! 私、お腹が空いちゃったわ!」

「ああ、そうだね。ほら、一色君も座って」

「え? いや、僕はバイト中ですので……」


 大企業の社長とはいえ、初めて顔を合わせたおっさんの誕生日を祝えるほど、僕のメンタルは強くない。


「ああ、一色君。今日はもうバイトは上がっていいよ。そっちに混じって、片付けだけ手伝ってくれればいいから」


 マスター! 気をきかせてくれたのかもしれないけどさ! どっちかというと働かせて欲しかったよ!


「あー……じゃあ、ご一緒させていただきます」


 せめて、剛毅さんから遠い席に座ろう……。

 カウンターの真ん中に剛毅さんが座り、その左側を奥さんと娘さんが座っている。僕は右側に座っている、東堂の隣に腰を下ろした。


 波乱の誕生日会が始まる。
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