山猫は歌姫をめざす
隣には、好きな人がいて。明日からも仕事上とはいえ、ずっと一緒にいてくれるはずだ。

(あたしって、恵まれ過ぎてるなぁ)

未優は急におかしくなった。知らないことを嘆いても、何も現実は変わらない。
「知らない」事実(こと)を「知る」のには、意味がある。それは、後退ではないはずで。

(いっぱい、いっぱい、あたしは知らないことがある)

それなら、「知って」いこう。ただそれだけで、世界は変わるのだから。
つらいことも、苦しいことも、きっと自分の糧になるはずだから……。

(あぁ、歌いたくなってきた)

「ごめん、留加。あたし、歌うね!」

未優は立ち上がり、ライトアップされた噴水の前へ行く。留加の返事を待たずに未優は『赤い靴』を語り、歌いだした。
それは、踊り続ける狂気を演じたシェリーとは違い、踊り続けていけることを喜ぶ者の悲劇を、見る者に感じさせた。

(他人には狂気に見える様も、本人には喜びとなる、悲劇)

愚かにも、自分を知らずにいる少女を、周囲の人間は哀れむが、むろん少女は、そのことすら、知らない。
……それが、未優の『赤い靴』の“解釈”だ。

道往く人が、未優を振り返る。彼女の歌声は人を惹きつけ、その物語のなかへと入りこませる。
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