山猫は歌姫をめざす
キーボードを叩きながら端末機の画面を見つめ、傍らのスケジュール帳らしきもののページを繰っては一瞥する。
視界にはもう、未優の姿は入っていない。

(あっさりし過ぎて、なんか拍子抜けなんだけど……ま、いっか)

深く考えることが苦手な未優は、そのまま慧一の部屋を出て行った。

未優の消えたのち、一瞬、慧一は手を止め扉の向こうを見透かすように目を細めたが、すぐに元の作業へと戻った。

†††††

“歌姫”として“舞台”に立つなら、“奏者”が必要不可欠。それも、自らの『声』にぴたりと合う、音色を響かせてくれる弾き手が。
未優にとって、留加の奏でる『音』こそが、求めていたものだった。

あの日聴いた、高みをめざすヴィタリのシャコンヌ。未優のなかで特別な思い入れがある楽曲を、彼は見事に表現していた。
最初の動機はなんであれ、いまは切実に、ヴァイオリニストとしての彼を必要としていた。

「……足はもう、いいのか?」

ヴァイオリンの調弦をしながら留加が未優に訊いてくる。

初めて会った噴水のある広場の片隅に、彼はいた。
待ち合わせの約束も、携帯電話の番号も交換しなかったが、あの時の彼の言葉に嘘はないと、未優は確信していた。
だから、偶然出会った場所のうち、どちらかに行けば、留加に会えるはずだと思ったのだ。

「すっかり。なんならここで、宙返りしてみせるけど?」
「いや、しなくていい」
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