転生令嬢は腹黒夫から逃げだしたい!
◇あんたなんか呼んでないわよ!◆
エルトリーゼは異界についての書籍が並ぶ本棚を見て回っていた。
ここだって前世からすれば異世界なのだ、異界と呼ばれる場所があっても何もおかしくはない。
(さすがに死者が蘇ることはないだろうけど……)
自分は、セツナ・ドウジマはとっくに火葬されてしまっているだろうし。
(せめて、ここから逃げ出せればいいのよ、それだけで……)
ふと手に取って開いた本には、魔法のない世界の描写があった。それはまるでもともと居た世界のようだ。
彼女はそれに集中していたために、周囲が少し騒がしくなったのに気づかなかった。
(地球……やっぱり、この世界にもこういう情報ってあるのね)
その先に「不思議の湖」という単語を見つけた。
(なになに……? 戻りたい時間、戻りたい世界に戻るための扉? え、なにそれ、もしかして戻れるってこと!?)
「何、してるの」
「っ!?」
肩を叩かれてエルトリーゼが反射的に振り返ると、そこにはアヴェルスの姿があった。
なぜここに? というのは愚問かもしれない。
あれだけ怪しい行動を取っておいて、この狐のような狸のような男が疑わないわけがない。
「な、ななな……っ」
けれど驚きのあまり言葉が追いつかない。いったいどう言い訳をすればいいのだろう。
「異世界……不思議の湖……」
エルトリーゼが取り乱しているあいだに手元の本に目を通した彼の表情が一瞬険しくなり、そしてにこりと優しく微笑む。スイッチが入ったのだろう。
「エルトリーゼ、ちょっと話をしようか。調子がよくないみたいだけど、少しだけでいいから時間をくれないか?」
「……今日は、無理ですわ。殿下」
「その本を借りて読むから?」
手から本を取り上げられ、エルトリーゼは焦った。やっと見つけた手がかりだというのに!
「殿下! 返してくださいませ!」
小声で叫ぶがアヴェルスは冷たい瞳でエルトリーゼを見おろして言う。
「不思議の湖なんかになんの用があるっていうんだい? きみには関係のない場所だろう?」
まだその湖がどこにあるのか読んでいないのだ。それなのにここで負けるわけにはいかない。食い下がり、本に手を伸ばすエルトリーゼ。
「殿――っ」
唇が重なる。その驚きに目を見開く。
「おまえは俺の言うとおりにしてりゃあいいんだよ」
耳元で囁かれた言葉に愛はなく、エゴだけがあった。
◇◇◇
そのまま手を引かれてまたアヴェルスの私室まで転移魔法で引っ張り戻された挙句、ベッドに身体を転がされてエルトリーゼは小さく呻いた。
「――っぐ、この……っ!」
「なるほど、おまえ異世界の者か。合点がいったよ」
アヴェルスの言葉に青ざめるエルトリーゼ。彼はその反応さえ愉しむように歪な笑みをうかべた。
「おおかた、元の世界に戻りたいとかだろう? 冗談じゃない、婚約者が失踪したなんてスキャンダルじゃないか」
飄々としているアヴェルスと反対に、エルトリーゼは俯いてぼそりと呟く。
「……れないわよ」
聞こえなかっただろう、不思議そうに首を傾げるアヴェルスを睨む。
エルトリーゼは恨みの篭った視線をアヴェルスに向け、叫んだ。
「戻れないわよ! 私、とっくに死んでいるんだからっ! 異世界の人間じゃない、転生してこんなところに生まれてきたの!!」
驚いているアヴェルスに、そのままエルトリーゼは叫ぶ。
「家族にも、友達にも、大好きなひとにももう逢えないの!! あんたと違って!!」
ハッと嗤い、エルトリーゼは歪な笑みで言う。
「邪魔をしないでよ、あんたは相手なんか誰だっていいんでしょ。いえ? 本当はユーヴェリー様がよかったんでしょう! これ以上惨めな思いにさせないでよ、だから……私の邪魔、しないで……ッ!」
彼の手にいまだある本に手を伸ばそうとしても、高くあげられて手が届かない。
「っ、この……! これだけ言ってもまだ邪魔しようっていうの!?」
「ああ、邪魔するさ。ユーヴェリーを妻にしたいとこっちだって何度も懇願していたんだ、だけど両親が選んだのはおまえだったよ。彼女は駄目だってさ。俺には立場も責任もある、そしてそれはおまえにもだ。お気楽な学生生活をしていたおまえは死んだんだろ? だったら――」
低い声で、アヴェルスが言う。
「諦めて俺の妻になって、俺の子供を産むんだな」
アヴェルスの手から本が消える、おそらく魔法でどこかに隠したのだろう。
それに気を取られてしまったせいで、エルトリーゼの反応が遅れた。
「っ!? ちょっと……! ん、ぅ……っ」
ベッドに組み敷かれ、唇が重なる。なぜこんなことになっているのだろう?
「ちょ、っと! あんた! 私のことなんか好きでもなんでもないんでしょ! 好みじゃないんだったらせめて放置するとかできないわけ!? 側室でもなんでも取ってそのひとに子供を産ませればいいじゃない!」
唇が離れるなり平手打ちをしてやろうとしたが、その手はベッドに縫いとめられた。
少しはまともな言葉が聞けるかと思ったが、残念ながら……アヴェルスは厭味に嗤って口角を歪ませて告げた。
「俺を束縛しておいて自分だけ自由になろうとしてんじゃねぇよ、地獄の底まで付き合わせてやる。おまえが居なければ、俺だって自由に相手を選べたかもしれないんだからな」
こ、の、く、そ、や、ろ、う!
という言葉を呑み込んで、エルトリーゼは思い通りになどなってやるものかと、渾身の力で頭突きをした。
さすがに想定外だったろう、公爵令嬢が王子に、婚約者に、頭突きをしてくるなんて。
額を押さえてよろめいたアヴェルスを押しのけようとするが、片手が縫いとめられたままだ。なんてしつこさだろうか、ある意味その執念だけは尊敬できる。
「離さないともういっぺんぶっとばすわよクソ王子、は、な、せッ!」
今度は足で蹴り飛ばそうとしたが、その足も掴まれてしまう。
「こ……の……」
アヴェルスの紫色の瞳が憎しみに燃えるが、エルトリーゼの水色の瞳には嫌悪と侮蔑があった。
「あんた、今まで誰でもきゃあきゃあ言ってくれて思い通りだったんでしょうけど、私はそうはいかないわよ。好きなひとが居るからね。たとえもう逢えなくても」
「心底腹の立つ女だよ、おまえは……」
唸るような声にも恐怖はなかった、何をされようと死ぬときのショックに比べればたいしたことはない。
「私、年下って好みじゃないし、あんたみたいな死んだ目をしてる男は特に好みじゃないの。破談ならいつでも大歓迎だから、ユーヴェリー様が好きなら好きで、さっさと私はゴミ箱にでも突っ込んでちょうだい」
フンッと鼻で嗤ってやると、アヴェルスは低く嗤った。
「へェ……?」
ここまでコケにしてやればさすがにこの男も降参するかと思ったのだが、逆によくない何かに火をつけてしまったような予感がした。
「だったら余計に手放してなんかやらねーよ、絶対に絶対に、逃がしてやるもんか」
「ちょ……」
ドレスに手をかけられて青ざめる。この男、まさかとは思うが……。
しかしここで怯えては相手の思う壺だ、エルトリーゼはもう一度フンと鼻を鳴らした。
「何よ、無理矢理やりたきゃやればいいわ。私、初めてじゃないし、しおらしく怯えて喘いでやると思わないことね、隙を見せたらもう一発喰らわせてやるわ」
嘘だった。実際には前世でも今生でも初めてであるし、怖くてしようがない。
だが、ここで怯えて泣きだしでもすればこの男が図に乗るのは間違いない。
「……腹立つ」
静かで、ひどく冷たい声だった。
アヴェルスが身を引いたので、エルトリーゼは一気に起きあがってベッドからおりる。
「何よ、お互い様でしょ。あんただって女の子とっかえひっかえしてるでしょうに」
「……俺のは仕事の一環だよ、おまえみたいな……下賎の女と違ってな」
背を向けているアヴェルスの表情は分からないが、エルトリーゼはとにかく難を逃れて安堵した。
「下賎で結構、これも充分スキャンダルでしょ? せっかくだから婚約破棄にしてくれてもいいのよ」
金色の髪を払って、せいせいしたというように告げるエルトリーゼ。
「……ハ」
小さく笑って、アヴェルスが振り返る。その笑みは歪なものだった。
「そんなに必死に破棄にしてくれって頼まれたんじゃあ、してやろうって気も失せるだろ」
「チッ、最悪の男ね。本当に」
エルトリーゼは少し乱れたドレスを直すと扉に向かった。
まったく、さんざんな一日だ。
◇◇◇
屋敷に戻ると、あからさまに不機嫌そうなエルトリーゼにロレッサが首を傾げた。
「ど、どうなさいました? お嬢様……」
「なんでもないわ……いえ、やっぱりロレッサにも聞きたいのだけれど」
玄関ホールを抜けて自室に向かいながら、エルトリーゼは彼女に問いかける。
「あのクソ……じゃない。その、アヴェルス殿下みたいな男性って、ロレッサにとってはどうなの? やっぱり理想の男性なの?」
なんとなく返答は予想していたが、ロレッサはにっこり頬を緩ませて頷く。
「ええ、だって、お優しくてなんでもできて、理想的じゃありませんか?」
「……そう」
低く低く返事をしたエルトリーゼに、ロレッサはまた首を傾げる。
「お嬢様? 何かあったのですか?」
「何もないわよ、何も」
つかつかと早足に歩くエルトリーゼを追いかけて、ロレッサは険しい表情で言う。
「駄目ですよお嬢様、いくらアヴェルス様がお優しいかただとは言っても、あんまりご迷惑をおかけしては……」
今、初めてロレッサに苛立ったかもしれない。だが悪いのは彼女ではない、あの爽やか理想の王子様な仮面をつけている男が悪いのだ。
「そうね、気をつけるわ」
そっけなく言うと、ロレッサは不思議そうな顔をした。
「もしかして……お嬢様が迷惑をおかけになったのではなく、殿下に何か嫌なことをされたのです?」
心優しいロレッサはやはり察しがいい。けれどここで頷こうものならあの男の報復が恐ろしい。
「ま、まさか。そんなわけないじゃない。あの殿下ですものー」
棒読みで言うと、ロレッサは腑に落ちていない様子だったが頷いた。
「そう……ですよねえ、殿下に限ってお嬢様を傷つけるようなことはなさらないでしょうし」
実際には思いっきり傷つけてくれているのだが。とはいえロレッサまで巻き込むわけにはいかない。彼女は最後まで夢を見ているべきだ。
エルトリーゼは重いため息を吐いて、部屋に戻ると湯浴みをすませてベッドに潜りこんだ。
夢を見る。土砂降りの雨が身体の上に落ちてくる。死を迎える瞬間の夢。
本当はこんなの逃避でしかないと分かっている。
セツナとしての死を迎えてエルトリーゼとして生まれ、生きて、すでにシヅルという男性は遠い過去の存在である。
それでも不思議の湖に縋るのは、あの男、アヴェルスから逃れたいからに他ならない。
夢でもなんでもいい、あの男と結婚して夫婦になって生きるくらいなら、仮の世界で眠るように生き続けるほうがいい。
(あいつは少しも私のことなんて好きじゃないんだから……)
こんなにつらくて苦しいことがあるだろうか。
逃げたかった、逃げたいと思うたびに脳裏を掠めるのは前世の恋人。
アヴェルスと違って本当にエルトリーゼ、セツナを愛してくれていた大切なひと。
現実には途切れた彼との幸福な生活をもう一度紡げるのなら、アヴェルスから逃れることができるのなら、それだけでいい。
(花火大会に行こうって、約束したのにそれも叶えられなかったし……)
あのときのシヅルの嬉しそうな笑顔を今も忘れない。
あのあと、彼はどうしたのだろう?
花火大会には行ったのだろうか? 自分は死んでしまったから、その後の彼について何も知らない。
そんなことをぼんやりと思いながら、エルトリーゼは深い眠りの底へ落ちていった。
ここだって前世からすれば異世界なのだ、異界と呼ばれる場所があっても何もおかしくはない。
(さすがに死者が蘇ることはないだろうけど……)
自分は、セツナ・ドウジマはとっくに火葬されてしまっているだろうし。
(せめて、ここから逃げ出せればいいのよ、それだけで……)
ふと手に取って開いた本には、魔法のない世界の描写があった。それはまるでもともと居た世界のようだ。
彼女はそれに集中していたために、周囲が少し騒がしくなったのに気づかなかった。
(地球……やっぱり、この世界にもこういう情報ってあるのね)
その先に「不思議の湖」という単語を見つけた。
(なになに……? 戻りたい時間、戻りたい世界に戻るための扉? え、なにそれ、もしかして戻れるってこと!?)
「何、してるの」
「っ!?」
肩を叩かれてエルトリーゼが反射的に振り返ると、そこにはアヴェルスの姿があった。
なぜここに? というのは愚問かもしれない。
あれだけ怪しい行動を取っておいて、この狐のような狸のような男が疑わないわけがない。
「な、ななな……っ」
けれど驚きのあまり言葉が追いつかない。いったいどう言い訳をすればいいのだろう。
「異世界……不思議の湖……」
エルトリーゼが取り乱しているあいだに手元の本に目を通した彼の表情が一瞬険しくなり、そしてにこりと優しく微笑む。スイッチが入ったのだろう。
「エルトリーゼ、ちょっと話をしようか。調子がよくないみたいだけど、少しだけでいいから時間をくれないか?」
「……今日は、無理ですわ。殿下」
「その本を借りて読むから?」
手から本を取り上げられ、エルトリーゼは焦った。やっと見つけた手がかりだというのに!
「殿下! 返してくださいませ!」
小声で叫ぶがアヴェルスは冷たい瞳でエルトリーゼを見おろして言う。
「不思議の湖なんかになんの用があるっていうんだい? きみには関係のない場所だろう?」
まだその湖がどこにあるのか読んでいないのだ。それなのにここで負けるわけにはいかない。食い下がり、本に手を伸ばすエルトリーゼ。
「殿――っ」
唇が重なる。その驚きに目を見開く。
「おまえは俺の言うとおりにしてりゃあいいんだよ」
耳元で囁かれた言葉に愛はなく、エゴだけがあった。
◇◇◇
そのまま手を引かれてまたアヴェルスの私室まで転移魔法で引っ張り戻された挙句、ベッドに身体を転がされてエルトリーゼは小さく呻いた。
「――っぐ、この……っ!」
「なるほど、おまえ異世界の者か。合点がいったよ」
アヴェルスの言葉に青ざめるエルトリーゼ。彼はその反応さえ愉しむように歪な笑みをうかべた。
「おおかた、元の世界に戻りたいとかだろう? 冗談じゃない、婚約者が失踪したなんてスキャンダルじゃないか」
飄々としているアヴェルスと反対に、エルトリーゼは俯いてぼそりと呟く。
「……れないわよ」
聞こえなかっただろう、不思議そうに首を傾げるアヴェルスを睨む。
エルトリーゼは恨みの篭った視線をアヴェルスに向け、叫んだ。
「戻れないわよ! 私、とっくに死んでいるんだからっ! 異世界の人間じゃない、転生してこんなところに生まれてきたの!!」
驚いているアヴェルスに、そのままエルトリーゼは叫ぶ。
「家族にも、友達にも、大好きなひとにももう逢えないの!! あんたと違って!!」
ハッと嗤い、エルトリーゼは歪な笑みで言う。
「邪魔をしないでよ、あんたは相手なんか誰だっていいんでしょ。いえ? 本当はユーヴェリー様がよかったんでしょう! これ以上惨めな思いにさせないでよ、だから……私の邪魔、しないで……ッ!」
彼の手にいまだある本に手を伸ばそうとしても、高くあげられて手が届かない。
「っ、この……! これだけ言ってもまだ邪魔しようっていうの!?」
「ああ、邪魔するさ。ユーヴェリーを妻にしたいとこっちだって何度も懇願していたんだ、だけど両親が選んだのはおまえだったよ。彼女は駄目だってさ。俺には立場も責任もある、そしてそれはおまえにもだ。お気楽な学生生活をしていたおまえは死んだんだろ? だったら――」
低い声で、アヴェルスが言う。
「諦めて俺の妻になって、俺の子供を産むんだな」
アヴェルスの手から本が消える、おそらく魔法でどこかに隠したのだろう。
それに気を取られてしまったせいで、エルトリーゼの反応が遅れた。
「っ!? ちょっと……! ん、ぅ……っ」
ベッドに組み敷かれ、唇が重なる。なぜこんなことになっているのだろう?
「ちょ、っと! あんた! 私のことなんか好きでもなんでもないんでしょ! 好みじゃないんだったらせめて放置するとかできないわけ!? 側室でもなんでも取ってそのひとに子供を産ませればいいじゃない!」
唇が離れるなり平手打ちをしてやろうとしたが、その手はベッドに縫いとめられた。
少しはまともな言葉が聞けるかと思ったが、残念ながら……アヴェルスは厭味に嗤って口角を歪ませて告げた。
「俺を束縛しておいて自分だけ自由になろうとしてんじゃねぇよ、地獄の底まで付き合わせてやる。おまえが居なければ、俺だって自由に相手を選べたかもしれないんだからな」
こ、の、く、そ、や、ろ、う!
という言葉を呑み込んで、エルトリーゼは思い通りになどなってやるものかと、渾身の力で頭突きをした。
さすがに想定外だったろう、公爵令嬢が王子に、婚約者に、頭突きをしてくるなんて。
額を押さえてよろめいたアヴェルスを押しのけようとするが、片手が縫いとめられたままだ。なんてしつこさだろうか、ある意味その執念だけは尊敬できる。
「離さないともういっぺんぶっとばすわよクソ王子、は、な、せッ!」
今度は足で蹴り飛ばそうとしたが、その足も掴まれてしまう。
「こ……の……」
アヴェルスの紫色の瞳が憎しみに燃えるが、エルトリーゼの水色の瞳には嫌悪と侮蔑があった。
「あんた、今まで誰でもきゃあきゃあ言ってくれて思い通りだったんでしょうけど、私はそうはいかないわよ。好きなひとが居るからね。たとえもう逢えなくても」
「心底腹の立つ女だよ、おまえは……」
唸るような声にも恐怖はなかった、何をされようと死ぬときのショックに比べればたいしたことはない。
「私、年下って好みじゃないし、あんたみたいな死んだ目をしてる男は特に好みじゃないの。破談ならいつでも大歓迎だから、ユーヴェリー様が好きなら好きで、さっさと私はゴミ箱にでも突っ込んでちょうだい」
フンッと鼻で嗤ってやると、アヴェルスは低く嗤った。
「へェ……?」
ここまでコケにしてやればさすがにこの男も降参するかと思ったのだが、逆によくない何かに火をつけてしまったような予感がした。
「だったら余計に手放してなんかやらねーよ、絶対に絶対に、逃がしてやるもんか」
「ちょ……」
ドレスに手をかけられて青ざめる。この男、まさかとは思うが……。
しかしここで怯えては相手の思う壺だ、エルトリーゼはもう一度フンと鼻を鳴らした。
「何よ、無理矢理やりたきゃやればいいわ。私、初めてじゃないし、しおらしく怯えて喘いでやると思わないことね、隙を見せたらもう一発喰らわせてやるわ」
嘘だった。実際には前世でも今生でも初めてであるし、怖くてしようがない。
だが、ここで怯えて泣きだしでもすればこの男が図に乗るのは間違いない。
「……腹立つ」
静かで、ひどく冷たい声だった。
アヴェルスが身を引いたので、エルトリーゼは一気に起きあがってベッドからおりる。
「何よ、お互い様でしょ。あんただって女の子とっかえひっかえしてるでしょうに」
「……俺のは仕事の一環だよ、おまえみたいな……下賎の女と違ってな」
背を向けているアヴェルスの表情は分からないが、エルトリーゼはとにかく難を逃れて安堵した。
「下賎で結構、これも充分スキャンダルでしょ? せっかくだから婚約破棄にしてくれてもいいのよ」
金色の髪を払って、せいせいしたというように告げるエルトリーゼ。
「……ハ」
小さく笑って、アヴェルスが振り返る。その笑みは歪なものだった。
「そんなに必死に破棄にしてくれって頼まれたんじゃあ、してやろうって気も失せるだろ」
「チッ、最悪の男ね。本当に」
エルトリーゼは少し乱れたドレスを直すと扉に向かった。
まったく、さんざんな一日だ。
◇◇◇
屋敷に戻ると、あからさまに不機嫌そうなエルトリーゼにロレッサが首を傾げた。
「ど、どうなさいました? お嬢様……」
「なんでもないわ……いえ、やっぱりロレッサにも聞きたいのだけれど」
玄関ホールを抜けて自室に向かいながら、エルトリーゼは彼女に問いかける。
「あのクソ……じゃない。その、アヴェルス殿下みたいな男性って、ロレッサにとってはどうなの? やっぱり理想の男性なの?」
なんとなく返答は予想していたが、ロレッサはにっこり頬を緩ませて頷く。
「ええ、だって、お優しくてなんでもできて、理想的じゃありませんか?」
「……そう」
低く低く返事をしたエルトリーゼに、ロレッサはまた首を傾げる。
「お嬢様? 何かあったのですか?」
「何もないわよ、何も」
つかつかと早足に歩くエルトリーゼを追いかけて、ロレッサは険しい表情で言う。
「駄目ですよお嬢様、いくらアヴェルス様がお優しいかただとは言っても、あんまりご迷惑をおかけしては……」
今、初めてロレッサに苛立ったかもしれない。だが悪いのは彼女ではない、あの爽やか理想の王子様な仮面をつけている男が悪いのだ。
「そうね、気をつけるわ」
そっけなく言うと、ロレッサは不思議そうな顔をした。
「もしかして……お嬢様が迷惑をおかけになったのではなく、殿下に何か嫌なことをされたのです?」
心優しいロレッサはやはり察しがいい。けれどここで頷こうものならあの男の報復が恐ろしい。
「ま、まさか。そんなわけないじゃない。あの殿下ですものー」
棒読みで言うと、ロレッサは腑に落ちていない様子だったが頷いた。
「そう……ですよねえ、殿下に限ってお嬢様を傷つけるようなことはなさらないでしょうし」
実際には思いっきり傷つけてくれているのだが。とはいえロレッサまで巻き込むわけにはいかない。彼女は最後まで夢を見ているべきだ。
エルトリーゼは重いため息を吐いて、部屋に戻ると湯浴みをすませてベッドに潜りこんだ。
夢を見る。土砂降りの雨が身体の上に落ちてくる。死を迎える瞬間の夢。
本当はこんなの逃避でしかないと分かっている。
セツナとしての死を迎えてエルトリーゼとして生まれ、生きて、すでにシヅルという男性は遠い過去の存在である。
それでも不思議の湖に縋るのは、あの男、アヴェルスから逃れたいからに他ならない。
夢でもなんでもいい、あの男と結婚して夫婦になって生きるくらいなら、仮の世界で眠るように生き続けるほうがいい。
(あいつは少しも私のことなんて好きじゃないんだから……)
こんなにつらくて苦しいことがあるだろうか。
逃げたかった、逃げたいと思うたびに脳裏を掠めるのは前世の恋人。
アヴェルスと違って本当にエルトリーゼ、セツナを愛してくれていた大切なひと。
現実には途切れた彼との幸福な生活をもう一度紡げるのなら、アヴェルスから逃れることができるのなら、それだけでいい。
(花火大会に行こうって、約束したのにそれも叶えられなかったし……)
あのときのシヅルの嬉しそうな笑顔を今も忘れない。
あのあと、彼はどうしたのだろう?
花火大会には行ったのだろうか? 自分は死んでしまったから、その後の彼について何も知らない。
そんなことをぼんやりと思いながら、エルトリーゼは深い眠りの底へ落ちていった。