神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
序(はじまり)
       †

人生最悪の日だ、と、咲耶(さくや)は思った。


アルバイト先の洋菓子店「ショパン」は、郊外にある小洒落た構えの店だ。

客用の駐車スペースは五台分あり従業員である咲耶は、店の入口から一番遠い場所にマイカーを停めさせてもらっていた。

たかだか10メートルほどの距離を、よろめくように歩き、車に乗り込む。

(……何も、誕生日の前日に、こんなにいろいろと起きなくても、いいじゃない……)

仕事の疲れと、自分の身に降り掛かった数々の不運に急に泣きたい気分になり、シートを倒して目をつぶる。

──涙が伝って耳のなかに入り、あわててバッグのなかからハンカチを取り出そうとした手に、封筒の硬い感触があたった。





「これ……今月分の、今日までのお給料。
松元(まつもと)さんには、本当、よく働いてもらってたから……こんな結果になってしまって、申し訳ないんだけど……」

閉店後、いつものように店内の後片付けを終え、あとはタイムカードを押すだけだった。

店長の村井佐智子は、おずおずと、そう切りだしてきた。

「えっと、あの……」

なんの冗談でしょう? と、問いかけた言葉をかろうじてのみこむ。

咲耶は、自分でも分かるくらいの嫌な笑みを浮かべた。事態の把握はできたが、認めたくなかったのだ。

「来月には店閉めるんだよ。これでもギリギリまで松元さんには働いてもらったんだけどね。……悪いね」

製造室からコック服を脱いだ村井正夫が、ボソボソと言いながら出てきた。

この店のオーナー兼パティシエの正夫が、度々、店の売上減少を嘆いていたのは知っている。
「これじゃ人件費も出ないよ」と、時折、こぼしてもいた。

だが、それを実感できるほど、咲耶は店の経営状態を理解してはいなかった。
売上金額を日報に記入したりはしていたが、実際コストがどのくらいかかっているかなど、一雇われの身で分かるはずもなかった。

「──お疲れさまでした。お先に……失礼します」

咲耶に理解ができたのは、今日でこの店に、自分は必要なくなったということだけだった。
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