神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「ハク──」

呼びかけて、違う、と、つぶやく。それは、彼の真実の名前ではない。

そして、いま呼びかけて伝えなければ永遠に(・・・)彼を失ってしまう。女の言葉が意味するのはハクコの肉体の死(・・・・)なのだろうと、咲耶は気づく。
でなければ、息も絶え絶えな白い獣の身体から、流れ出る血の説明がつかない。これは文字通り“神の器”なのだ。

「お願い、血、止まって!」

強く押さえつける指の間を、無情にも流れ続ける鮮血。
咲耶は何度も何度も、お願い、と、声に出す。頭にはハクコの真の名が浮かんでいた。

(届いて、お願い──)

声にならない、叫び。
心から呼びかける、真名(なまえ)

(あなたの、名前は)

魂が()う、愛しい響き。
夢のなかで幾度も繰り返した、呼びかけ。

ドクン、と、強い脈動が、咲耶の手に伝わる。それを境に、ハクコの上下していた腹部が止まった。

……止まって、しまった。

(いや、ダメ、止まらないで……!)

完全に動きを止めた姿に、咲耶は現実を直視できずに思考を停止しかけた──次の瞬間。

グルル……グルル……という、規則正しい、獣がのどを鳴らす音がした。
そして、鼻息がわずかに聞こえた直後、白い獣の肢体が起き上がった。ぶるん、と、その身を震わせる。

『……それが、私の名か』

青い瞳が、咲耶を静かな眼差しで見つめてくる。傍らに、先ほどまで自らの身体を貫いていた矢を、落として。

「身体……もう、大丈夫……なの……?」
『お前の“神力(ちから)”で、再生された』

信じられない思いで問いかければ、信じられない答えが返ってきた。

──咲耶の“神力(しんりき)”。
治癒と再生──それが、『白い神の獣』が象徴するもの。“花嫁”が、代行する力。

『咲耶。もう一度、私の名を呼んでくれ』

白い“神獣”の鼻づらが、咲耶の鼻先にこすりつけられる。咲耶は、泣き笑いを浮かべた。

「──かず、あき」

初めて口をついて出た名前が、慣れなくて、こそばゆい。そう思った咲耶の頭に、バサッと何かが落ちてきた。

『……在り来たりな名じゃな。だが、まぁよい。これは妾からのほどこし(・・・・)じゃ。受け取れ』
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