神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「いいか、咲耶。これだけは覚えておけ。
秩序や道徳にこだわれば、いつかはおのれが人であること自体を否定したくなる。違うか?
それは、(むな)しいことだと俺は思うがな。……人が『ヒト』であることを忘れるな。人が、愚かであることを」

言うだけ言って、虎次郎は来た道を帰って行った。その背中を見送り、咲耶は、自分がまだ学生だった頃に感じたことを思いだす。

(私はただの人に過ぎなくて……そして、『ヒト』という理性をもった『獣』でもあるんだよね)

咲耶は虎次郎の残した言葉を胸の片隅にしまった。

「じゃ、和彰、行こっか!」

気を取り直して押し黙ったままの青年に声をかければ、咲耶を見てはいるものの、反応がない。

「ちょっと……和彰? こんなふうに呼びだしたこと、ひょっとして怒ってたりするの?」

近寄って、白い水干の胸もとをつかむ。
おもむろに咲耶に落とされた視線は、返事の代わりに肯定を示していた。

「……なによ」

突き飛ばすように、咲耶は和彰を押しやる。

「いつ呼んでも構わないって、言ったくせに」

寂しいような申し訳ないような気分とは裏腹に、咲耶は和彰に背を向け歩きだそうとした。次の瞬間、ぽつりと和彰が言った。

「私は……お前に必要とされない存在なのか?」

問いかけられた内容に、咲耶は驚いて和彰を振り返る。

「急に、なに?」
「お前は、なかなか私を呼ばない。今日もお前の気の乱れを、何度も感じた。けれども……お前は私を、呼ばなかった」

いつもの淡々とした口調ではなく、どこか思いつめたような感のある声。怒りとも悲しみともつかない感情を、咲耶に伝えてくる。

「それは……和彰は、簡単には『呼んではいけないひと』だって、気づいたから」

──犬朗に指摘され自覚したこと。
安易に和彰を呼び寄せてはいけないのだという思いが、咲耶の心の奥底にあることだった。

「なんだ、それは」

理解しがたい言葉を聞いたかのように、和彰は首をかしげ、眉を寄せる。
咲耶の言ったことの意味の、十分の一も解らないようだった。
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