神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
(不思議なことは、色々と周囲で起きてるけど、私自身が【何か】できるようになるわけでは、ないんだよね、きっと)

口にだすのが駄目なら書いて伝えればよいのでは? などと、とんち的な発想もしてみた。
しかし、いざ書こうとすると、目には見えない力に阻まれ、書くことができなかったのだ。

「咲耶様」

けさ方の、ハクコの名前にまつわる事柄を思いだす咲耶に、声がかかる。
じっ……と、まっすぐで深い色をした眼が、犬貴から向けられていた。

「咲耶様。どうか、一日も早く、ハク様に御名をお与えくださいませ。
あの方は、淋しい方なのです。ご出生もお育ちも……他の虎様方と、違われてますから」

「ああ。確か椿ちゃんも、そんなことを言ってたわ」
「えぇ。これ以上は、私の口からは申し上げられませんが……。
──失礼、咲耶様。
ヒトの匂いがいたします。私が咲耶様の“影”に入ることをお許しください」

鼻先を上へ向けたかと思うと、犬貴が緊迫した声をだした。
訳が分からず、「どうぞ」と応じる咲耶に、犬貴が鋭く言いそえる。

「私の頭に手を置き、「犬貴、許す」と、おっしゃってください」
「え? えっと……「犬貴、許す」?」

疑問系で言いながら、ひざまずいていた犬貴の頭に触れる。
とたん、犬貴が猿助のように煙のようなものに姿を変え、咲耶の影に吸いこまれるようにして消えた。

『私はしばらくのあいだ咲耶様の“影”となり、咲耶様をお護りいたしますので、ご安心くださいませ』

一瞬、背筋にゾクッと悪寒が走り直後に犬貴の【声】が、咲耶の身のうちで響いた。

「あの……犬貴、さん? これ、一体どういうことなのか、説明してもらえます?」

状態は解るが、状況が解らない。なぜ犬貴は、突然、姿を隠すような真似をしたのか。
「人の匂いがする」と、咲耶の“影”に入らなければならないのは、なぜなのか。

『この辺り一帯は、本来は只人である者は入れぬよう愁月(しゅうげつ)様が“結界(けっかい)”を張っておいでのはずですが……ほころびができたようです。
ハク様をはじめ他の虎様方のお住まいが点在する山野なので、神域として民には知れ渡っているはずですが、近頃は……』

急に歯切れの悪くなった犬貴の【言葉】に重なるように、がさがさという草木をかき分ける音と人の息遣いが、咲耶の耳に届いた。
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