神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
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「……これでもまだ、信じておるのか?」
立ち尽くす黒い甲斐犬に声がかかった。若い男の声だ。
だが、その本性が自分よりも遙かに年を重ねた存在であることは、犬貴も知っている。
“花嫁”を我が物にしようと企み、堂の床に転がる最期を迎えた壮年の男は、赤い甲斐犬がいた時よりも傷ついた骸をさらしている。
──まるで鎌イタチにでも襲われたかのように、黒衣が裂かれていた。
ぼさぼさ髪の少年は、容姿に見合わない暗い眼差しで、道幻の遺体を見下ろす。
「難儀な性格よのぉ、おぬしも。しかしこれは──」
次いで、闘十郎の口から出たのは、ぞっとするほどの低い声。
「赦されることではない」
「……存じております」
生真面目に応じる黒い甲斐犬に、大仰なほどに闘十郎は眉を上げた。
「ほぉ、認めるか。だがの、本心から出た言葉とはいえ、軽率でないと誰が言える?
わしには到底、理解しがたいわ。
──おぬしも……愁月も」
何もかもを受け入れた深い色合いの瞳が、老齢な心の少年を静かに見返した。
「この男の始末はコク様が?」
「そうさのう……。面倒だが、これもわしの務め。“役割”じゃからな」
“下総ノ国”の“ 神獣”のうち、律儀に“役割”をこなしているのは、この黒い“神獣”だけだろう。
犬貴の“主”である白い“神獣”も、女装いの赤い“神獣”も、自らの“花嫁”以外のことには無関心だからだ。
つかの間、黒虎毛の犬の目が伏せられた。
ふたりの“主”を想い、己に何ができるか問いかける。
(私にできることなど、限られている……)
事の顛末を、“主”である咲耶に語ること。そして、判断を仰ぐこと。
“主”に背き、自分だけが知る真実を伏せていたわけではない。話すことが本当に“主”のためになることなのか、疑問だったのだ。
──かつて、想いを寄せた存在がいた。その意志を尊重することと、“主”を想うことは同義であったはず。
(だが、今回のことは──)
何が、正しいのかは解っている。信じたい存在も信じてもらいたい存在も、いる。優先すべきは、何なのか。
……選ばなければならない時が、来たのかもしれない。