神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
“花嫁”として、“主”として。為すべきことを為すために。『咲耶』という個人の感情を置き去りにしてきたことを──。

ふいに、咲耶ののどの奥から、嗚咽(おえつ)が漏れた。

「……っ……私っ……」

みるみる間にゆがむ視界。まだ春先の冷たい夜風が、咲耶の頬を流れたしずくをさらう。

「か、和彰に……ちゃんと、聞けば、良かった……!」

(ゆる)せと告げた、美しき白い“神獣”の“化身”。かの者の、真意を。

「何か、あったんだって……き、気づいていたのに……! カッコつけ、ちゃったの……!
私、和彰の言う通りに、果たすべき役割を果たして……それから和彰の所に行くっ……て……!」

犬朗は、子供のように泣きじゃくりながら話す咲耶を、黙って見つめていた。

「だけどっ……! 次に会った和彰は、私のこと全然分からないみたいで……っ……。私、わたし……怖いのっ……!」
「──咲耶サマの目の前で、人を(あや)めた旦那がか?」

めずらしく感情をこめない物言いで尋ねる犬朗に、咲耶は大きく首を横に振ってみせる。

「違っ……。このままっ……私のコト、分からないまま……っ……和彰が……和彰を失ってしまったらって……。考えたら……怖くて……!」

大粒の涙が、次々に咲耶の頬を伝っていく。口に出した後悔や不安な思いはとめどなく、言葉に詰まりながらも咲耶は話し続けた。

「……わ、私、和彰を、取り戻せるの、かな……? 前みたく……和彰が私のことを、想ってくれる日が……くるの、かな……っ……」

鼻をすすりしゃくり上げ、咲耶はこぼれた涙を乱暴にぬぐった。

犬朗が、ふたたび応じる。

「無理だろ」

きっぱりと短く告げられた言葉に、肯定を期待していた咲耶は、驚いて目を見開いた。
その頬に残った涙を、犬朗の舌が優しくなめとる。

「……咲耶サマ一人じゃ、無理だろ──……ってぇな!」

言いかけた犬朗の口から、抗議のうめき声があがる。
いつの間にか背後にいたらしい黒虎毛の犬の拳が、赤虎毛の犬の後頭部を殴ったようだ。

「このっ、()れ者がっ! 我らの“主”様を何と心得る!? 貴様はどうしてこうも、破廉恥な行いばかり繰り返すのだ!」
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