神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
しかし、これほどの広さの敷地でありながら、人のいる気配がまったく感じられないのが奇妙だ。
咲耶が不審に思い、犬貴に尋ねようとした時、背後でドサッという物音がした。

「……っ、犬朗!」

天を仰ぎ尻餅をついている赤い甲斐犬に、あわてて駆け寄る。肩で息する様に、先ほど言われていたことを思いだした。

「大丈夫? 生命力って、どうやって分けてあげたらいいの? 和彰がやってたみたいに、名前を呼んで額をちょん、で、いいの?」
「…………いや」

かすれた声音が小さく否定すると、咲耶の身体を引き寄せ閉じ込める。

「名前呼んで……ちょっとだけ、俺のコト……考えてくれ」
「──へ? け、犬朗……?」

間が抜けた返しをする咲耶の耳に、ぶはっ、という盛大な噴き出し笑いが入ってきた。

「や、そーいうんじゃ……なくもねぇけど……んん? ──まぁ、いっか……」
「犬朗? ホントに大丈夫なの?」

力を遣い過ぎて、意識が朦朧(もうろう)とでもしているのだろうか。

急に心配になった咲耶は、縮こまった状態のまま、犬朗の(あわせ)をつかんでみせる。ふいに両肩が押し遣られ、束縛がとかれた。

「おっし! 回復完了! 世話になったな、咲耶サマ」
「え? いまので良かったの? 全然イミ解んないんだけど……」

これといって特別なことをした自覚がない。
咲耶は、隻眼の虎毛犬の疲弊しきった様子を思いだし、困惑する。
だが肝心の犬朗は、すでに身軽な素振りで立ち上がり、咲耶を見下ろしていた。

「ん~、説明すっと長くなるし、いまは……──そんな暇は、ねぇようだぜ?」
「咲耶様」

緊迫した気配が伝わってくる犬貴の呼びかけ。直後、咲耶にも、“眷属”たちのいわんとすることが解った。

屋敷のほうから、狩衣(かりぎぬ)姿の中年の男がやって来たからだ。

「──風に雷、変化(へんげ)に癒やし……あれにしては、よい選別を行ったものだな」

“眷属”たちを順に見つめた瞳が最後に咲耶に焦点を当て、止まる。歌を詠むかのような抑揚のある言い回しにしては、実のない言葉。

「さて。表門から入らず、わざわざ『裏の道』から来たわけを、訊かせてもらおうか? 咲耶」

微笑みを浮かべた顔は、能面のようにその真意を悟らせず、咲耶は我知らず寒気を覚えていた……。




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