神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「……姫」

心の整理がつかないまま呆然と愁月の背中を見送る咲耶の耳に、沙雪のか細い呼びかけが落ちる。
見上げた咲耶の目に映る、哀しみに満ちた瞳。
大きく息を吸い、決断を下すように、沙雪が言葉を吐きだした。

「……御身を、お預かりいたします」


       *


牛車のなかにいた時にもあった、悪酔いしたような感覚。ひとつ足を踏みだすごとに揺れる大地と、込み上げるわずかな吐き気。

「姫。ご気分が優れませぬか?」

気遣うように声をかけられても、以前のように沙雪に対し素直にはなれない。咲耶は無言で首を横に振る。

片手を沙雪に引かれ、逃げる気力すらない状態は、この吐き気と倦怠(けんたい)感のせいなのか。
思考力さえままならない感じは、“神力”を遣い始めた頃の自分の身体のようだった。

ふら、と、仰向けに倒れそうになった咲耶に気づき、沙雪の腕が背に回された。
ふたたび咲耶を気遣う言葉が投げかけられたが、それは咲耶の耳には届かなかった。

──回廊を歩いていた咲耶の目の端に、桜の樹が映る。すると、視界がぐにゃりとゆがんだ。

「何を見ている?」

独特の抑揚をもつ声音が頭上からした。次いで、右手に暖かなぬくもりを感じ、驚いて見上げる。

口を開こうとするも、言葉が出てこない。黙っていると、視線の先の男がかすかに笑ったのが分かった。

「桜か」

ひらり、と、雪を思わす欠片が目の前を横切る。よくよく見れば、淡く色づいた花びらだ。

「──見よ、あれを。無表情で、何を考えておるのか、まるで解らぬ」

ひそめられた声は、遠くの位置で発せられたもの。回廊の折れた手前、先ほど通りすぎた辺りからだった。

「愁月が造り出した人形(ひとがた)ではないのか? 気味の悪いことだ」
「確かに。黒虎(こくこ)赤虎(せきこ)も我らと通ずるものがある。だが、あれは……」
「参ろうか、白虎(はくこ)

ふいに、近くでした声に視線を戻せば、微笑を浮かべたままの男が自分を見下ろしていた。

「……そなたの心にも、いつかは桜咲く日が訪れよう。案ずるな。今はまだその時ではない(・・・・・・・)だけだ」

にぎられた手のひらから伝わる温度。それはまるで何かの予兆のようだと、自分ではない自分が考えるのを咲耶は感じていた。


       *


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