神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
唯一、咲耶を大事に想ってくれて咲耶自身も気がかりな母親は、弟が責任をもって面倒をみてくれるはずだ。
そういう意味で、咲耶は『あちら』では必要とされていない存在だった。
だが『こちら』では『神の獣の伴侶』と位置づけられ、椿や犬貴に「様づけ」される存在だ。同じ立場の美穂や百合子という、“花嫁”仲間(?)もいる。

(居心地は、悪くない……)

どころか、与えられた屋敷は、旧式ではあるが畳も障子も真新しく……『向こうの世界』でのボロい我が家とは、雲泥の差であった。しかし──。

「恐れ入ります、咲耶様。少し、よろしいですか?」

犬貴は寡黙ではないが、自ら進んで会話を好むといった性質でもない。咲耶が思考にとりつかれているのを察してか、辺りに注意をはらいながら、黙々と隣を歩いていた。
その犬貴が、突然、声をかけてきたので、咲耶は驚いて思考と足を止める。

「なに? 犬貴。どうしたの?」

咲耶に軽く一礼し、犬貴は前足を小道から外れた右前方へ指し示した。

「あちらへ──」

皆まで言わず、咲耶の視線と身体を誘導する。木々ばかりに囲まれていて、気のせいかもしれないが……見覚えのある場所だ。
生い茂った草木を人為的になくし、ぽっかりと地面をのぞかせた空間が目に入る。──そこに、ハクコがいた。

声をかけようと思ったが、ハクコの様子に異変を感じ、咲耶はのどもとまで出かかった呼びかけをとどめる。
折しも、夜空に浮かんだ月の光がさやかに照らし始めるなか、ハクコは何かの『舞い』を踊っているように見えた。

指先が糸を紡ぐように繊細に動き、ひるがえる(たもと)がゆるやかに宙を舞う。踏み出す脚が地面をこする音が、単調に辺りに響いている。
一切のものを寄せ付けない清冽さと優美さが調和を()し、咲耶はただ、その姿を視界に入れたまま立ち尽くしていた。

やがてハクコが半ば伏せていたまぶたを上げ、一連の動きを止め声をかけてくるまで、まばたきすら忘れたような心地であった。

「──そこで、何をしている」

例によって感情の欠落したような低い声音に、咲耶は我に返り、あわてて傍らの犬貴を指す。

「あの、えっと、いま犬貴に屋敷まで送ってもらう途中で……」

言いかけた咲耶の隣にすでに犬貴の姿はなく、頭の上のほうで風にまぎれるような声がした。

『では私は、これで失礼いたします──』
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