神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「だから期待に応えようと、立派に“花嫁”の“役割”を果たした。
ええ、咲耶殿のご活躍は、聞き及んでおりますよ。“下総ノ国”の“神獣”の地位を、引き上げたことは。
たとえ賀茂(かも)家の小賢しいキツネ男の手のひらで踊らされた結果だとしても、成し遂げたのは咲耶殿ですから」
「そういうことじゃ、ないんです……!」

猪子が継いだ言は咲耶の意図したものと真逆で、もどかしさに咲耶は、首を強く横に振ってみせる。

『期待された自分』であり続けたのは、誰かのためではない。咲耶自身のためだ。
この『居心地の良い世界』にいたいと願ったのも、咲耶だ。“花嫁”として()われたからではない。

「私がここにいたいから、できることをしてきただけです!
この“陽ノ元”に召喚されたことは、私にとって『きっかけ』でしかなかった……!」

やっと、言いたかったことにたどり着く。咲耶を鋭い目で見据えるシシ神の女に、和彰へと伝えたかった想いを訴える。

「私は、憐れな“花嫁”なんかじゃありません! 自分で望んで、この世界で暮らしてきたんです。
和彰の……白い“神獣”の“花嫁”でいることが、私の幸せなんです!」

猪子の足もとへ、顔を伏せる。

「お願いします! 私を、和彰のもとに返してください! お願い、します……!」

すがりつくように、緋袴(ひばかま)のすそをつかむ。
シシ神の怒りに触れて業火に焼かれたとしても、いまここで自分の本心を言わなければ、後悔すると思ったからだ。

なりふり構わずといった咲耶に、あきれたのか同情したのか。ややして、小さな溜息をつきながら、猪子がその身を屈めた。
ふくふくとした手が、咲耶の手に置かれる。

「咲耶殿。その気持ちを伝えるべき相手は、この世界には居りませんよ」
「……え?」
「勘違いしておられるようですが、白いトラ神もわたくしも、咲耶殿がこの世界に居たいという気持ちでいることを、重々承知しております」
「え、でも……」

それなら、なぜ咲耶を元の世界へと戻そうとするのか。咲耶が訊き返そうとした時、猪子の細い目が地上へと向けられた。

「着きましたわ」

上空から見下ろすと、月明かりに照らされた森のなかに、迷路のように複雑な造りの塀があるのが分かった。
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