神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
責める口調になったことを後悔したが、それでも咲耶は悪あがきをせずにはいられない。
なんとかして、この“陽ノ元”という世界にいられたらと、頭のなかはそれだけだった。

「……カカ様の取り決めは絶対の理です」

正面を向いたまま、猪子が低く言い放つ。長い橋の上をすべるように進んでいた足が、二人同時にぴたりと止まった。

咲耶は、はっと息をのむ。開かれていると思った扉が、実は閉まっていたことに気づかずに、体当たりしてしまったようだ。

「ですが、それ以前に咲耶殿は、白いトラ神がなぜ自分を元の世界に返そうとしているのかを、きちんと考えたのですか?」

猪子から向けられた苛烈な眼差しに、咲耶は一瞬、言葉に詰まった。

和彰が、いつも咲耶に寄せてくれた想い。それは──。

「私の、ため……」

咲耶の心を尊重するということは、自分のそばに置いて護るだけではなく、自由にするということ。
咲耶の心の奥底にある想いに気づいたのなら、選択肢を与えることが必要なのだと、和彰は思ったはず。

「いままでずっと、帰れないって決めつけてきたから……帰れると知ったうえで、私が判断できるようにって……」

自分の想いよりも、咲耶の心を優先したのだ。

「では、白いトラ神の想いを無駄になさらぬよう、もう一度、自分の想いと向き直ってみるべきです。……何が、見えますか?」

すでに咲耶の下方にある、生い茂った豊かな緑の木々が、風にそよいでいる。蒼白く辺りが染まって見えるのは──。

咲耶は、自らを照らす月明かりに気づいた。仰向けば、変わらずにあるあたたかな光。
自分が生きてきた年数、見守るように照らしてくれた存在。
昼には見えず、夜にふと、見上げてきたもの。

「私……」

咲耶の胸に、押し殺した感情がこみ上げてきた。

「……母や弟に……会いたいです。会って、和彰のこと……私が、いま幸せだってことを、伝えたいです……」

窮屈なのどの奥から、咲耶が絞り出した切なる願い。

「ええ、それが、咲耶殿が想いを伝えるべき相手」

猪子の指先が、咲耶の濡れた頬を優しくぬぐう。
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