神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「だが、お前に名を問われた時、私は己に名のないことを恥じた。同時に、『恥じる』という感情が己の内側に存在することも、知った」

薄い闇が辺りを覆い、中空に浮かぶ月の光が、ほのかに、ハクコと咲耶を照らす。
ほどかれたハクコの長い指が、ふたたび咲耶に触れた。その、まなじりに。

「お前の涙が私の被毛を濡らしたのを、私は不快に感じた。考えてみれば名を問われた時も、私はそれを『不快』に感じたのだ。
そんな私に対し、師は、己が不快に思う正体を自身で探りだせと課せられた。それは、私の内側にあるはずの『感情』であるからと」

(理屈っぽいな。そんなに難しく考えなきゃいけないことなのかな)

咲耶はハクコの語る言葉をそんな風に受けとめる。反面、幼い子供が覚えたてのことを懸命に伝えようとしているようにも感じられ、口をはさめなかった。

(『師』って誰? とか、なんの先生なのか、とかね……)

訊きたいことはあったが、いまは訊かずにいようと思った。それは、じっと咲耶を見つめる瞳と、咲耶に触れる指先が【不快ではなかった】から──。

「私には足りぬものがある。それは書物を読むだけではどうにもならぬ、人としての感情らしい。
師が言うには、お前と過ごすなかで、それは得られるはずなのだ。だが」

すっ……と、ハクコの手が下りて、拳が握られる。
咲耶を見つめる瞳がわずかに揺らぎ、柳眉がひそめられた。

「私の側にいると、お前は、今日のように不快な思いをすることが増えるはずだ。お前に、なんの落ち度がなくとも。
私は人でも獣でもない……半ばにある存在だから、疎まれる。曖昧な、属性の明らかでないものを受け入れられる者は少ない。
私がそうある以上、共に在るお前に災いがふりかかる可能性が高い」

ひと息に言ってハクコは口を閉ざした。

咲耶は、ハクコに会う前までに考えていたことを思いだす。居心地の悪くない、この世界に、自分がいる意味を──。

「それで……あなたにとって、私は必要なの?」

切々と伝えられる内容に、咲耶は結論をうながす。迷いが晴れるような心地で。

「無論、必要だ」

はっきりと告げる低い声音が、咲耶の耳に届く。
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