神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「和彰は私が後悔しないように、あえて私に選ばせてくれているんです。あなたの言う通り、自分に都合良く事を運べたはずなのに」

咲耶が“陽ノ元”での記憶を取り戻した直後なら、その混乱に乗じて、咲耶をふたたび“陽ノ元”に連れ去ることもできただろう。
だが、和彰はそれをしなかった。

(たぶん……この世界での私のことを知ってしまったから)

咲耶がどんな暮らしをして、どんな人々に囲まれているかを。

「霜月柊は好き?」そう尋ねてきた和彰の心情が、いまなら手に取るように解る。あの時のせつなげな表情の意味も。

(本当の姿も名前も捨てて、私が望むならこの世界にいようって思ってくれたんだ)

たとえ咲耶が一時的に自分とのことを思いだしたとしても、また自分の存在自体を忘れてしまう可能性があると、知っていたにも関わらず。

(和彰……)

もう一度この世界で『霜月柊』という名の和彰と出逢い恋をして、関係を育むこともできるはずだ。けれども。

(私は……和彰と“陽ノ元”で出逢ったことを、無かったことにしたくない)

あの世界で出逢った人々との交流も、あの世界で自分が培った経験も。咲耶にとってはかけがえのない『財産』なのだ──。

咲耶は、笑った。自分が出した結論は、やはり人から後ろ指をさされるものなのかもしれない。

「一葉さん。私は、強欲なんかじゃありません」

それでも、譲れないものはある。

「私は自分の想い出を、何ひとつ、失いたくない。貪欲な、人間なんです」

自分の存在がこの世界から消えて無くなったとしても、咲耶の記憶にはこの故郷の想い出が残る──。

「“陽ノ元”に、戻ります」

救いがあるとするなら、最初から存在しない(・・・・・・・・・)咲耶を思い、悲しむ人などいなくなるということだ。

「……分かりました。そろそろ“神獣”サマもお戻りになっている頃かと。
参りましょうか」

一葉は事務的にそう言うと、車に乗りこんだ。
“神獣”の“花嫁”として生きると宣言した者が、こぼした涙に、気づかぬ素振りで。




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