愛してるからこそ手放す恋もある

「あら?いい温度じゃないですか?でも、これで熱いと仰るとは奥様のお煎れになるお茶はさぞかし温いん(ぬるいん)でしょうか?私、奥様に入れ方聞いてみようかしら?」

坂下さんの奥さんは兄の料理をとても気に入ってくださり、良くお店に来てくださる。私とも好意にしてくださり、休みの日には、お茶や、ショッピングにも誘ってくださる。

「あっいや…さっきは熱くて湯のみも持てなかったんだよ…妻には会社の事は…」

坂下さんはさっき迄の態度とは違い別人の様に小さくなって椅子に腰を落とした。

「では、お茶の件はもう宜しいですね?」

坂下さんが小さく頷いたのを見て私は女子社員へ労いの言葉を囁く。

「お疲れ様、戻っていいわよ」

すると彼女は「失礼します」と言って自席へと戻って行った。

「あっそれからこちらの書類確認済みですよね?ハンコが漏れてますのでお願いできますか?」

「あ、ああ…確認済みだ。ハンコねハンコ…」

坂下さんは机上のハンコに気付かず、引き出しの中や机の下を探している。私が教えようとしたとき坂下さんも気づいたようで「ったく誰がこんなとこに!?」と言ってハンコを押してくれた。

誰ってあんたしか居ないだろ!?

「有難う御座いました。ご自宅ではお優しくて素敵なご主人と奥様に聞いてますよ?」

全くの嘘だ。奥さんからはいつも『使えない亭主』と、愚痴を聞かされてる。

「そっそうか?」と坂下さんは照れて、ハゲた頭を撫でている。

「会社でも厳しいだけじゃなくて、もう少し部下にも優しく指導して下さると皆んなも坂下さんを慕って尊敬すると思いまし、そうなれば坂下さんの評価も上がりますよ?ねぇ、坂下課長?」

「そうだね?君の言う通りもう少し部下達にも優しくしたほうが良いかも知れないな?」

私が敢えて代理とつけなかったことに機嫌を良くした様だ。

「宜しくお願いします」と頭を下げ私は営業部を後にしようとドアへと向かう途中女性社員から無音の拍手が贈られる。




< 26 / 133 >

この作品をシェア

pagetop