Shine Episode Ⅰ
心の奥に仕舞いこんだ感情が、今にも頭をもたげようとしていた。
ふと、ソニアの言葉が頭をよぎった。
『女はね、時には強引に迫って欲しいのよ』
本当にそうだろうか。
この非常時に、感情の赴くまま水穂に触れていいのだろうか。
迫り来る恐怖に打ち勝つためにも、互いの存在を強く感じる必要があるのはわかっていた。
わかってはいたが、現状の水穂との関係を壊したくない気持ちも強い。
そむけた顔を戻すと、水穂のすがるような目が神崎に向けられていた。
その時、どうして微笑んだのか籐矢にもわからないが、水穂の口元も籐矢の笑みに応えるように柔らかく緩んだ。
頬に添えた手が、顔の角度を少しだけ上に向ける。
触れた唇は冷たく……そして、震えていた。
軽く重なった唇が一度離れ、もう一度重なったあとむさぼるように互いを求めていく。
恐怖も不安も、すべてが無音の中にまぎれ、そこに二人しか存在しないかのように、ただ、ただ、互いの唇をむさぼった。
舌先が痺れるほどのキスは、生きている証でもあった。
どれくらい抱きあっていただろうか。
危機感さえも忘れるほどの抱擁は、水穂が経験したことのないものだった。
「はぁ……酸素吸入器が欲しい……」
「はぁ? 感想がそれか」
「だって、神崎さんのキスって人工呼吸みたいですもん。もっと情熱的に出来ないんですか?
なんか、全然その気になりません」
「俺のキスで、どれだけの女が腰砕けになったか知らないな。おまえこそ、もっと色っぽくできないのか」
「ふっ、神崎さんが相手では無理です」
「言ってくれるじゃないか。どうだ、まだここで人生を終わらせたいと思うか?
そのつもりならキスだけじゃ物足りないだろう、その先も付き合うぞ」
「付き合うぞって、あのぉ……」
「A、B、C、一気にどうだ」
「ABCって、靴屋さんですか?」
首をかしげる水穂に、籐矢は真面目な顔で解説をはじめた。
「なんでここで靴屋が出てくるんだよ。良く聞け、教えてやる。
Aはキス、次はBで、Bってのは、その……なんだ、ふれあいだな。
最後のCは……自分で考えろ」
「Cはなんですか? わかりません、教えてください」
水穂は話の前後でCの意味を理解したのに、わざとわからない振りで籐矢に問いかける。
「Cは、その……おい、その顔、わかって言ってるだろう!」
「あはは、ABCなんて知りませんよ。いつの時代の話ですか? いまは、HIJKです。
神崎さん、知ってます?」
「知るか、そんなもん」
「Iは愛、Jはジュニア、Kが結婚、で、神崎さんのCとHは同じ意味です」
むくれ顔になった籐矢を見て、水穂がはじけるように笑い出した。
「あはは、笑いすぎてお腹が痛い、あはは……せっかくですけど遠慮しておきます」
「そうか、残念だな。俺でよければ付き合ったのになぁ」
「神崎さんじゃ雰囲気でませんから」
「言ってくれるじゃないか。俺の手で、すぐにでもその気にさせてやろうか」
「わっ、くすぐったーい、やだ、やめてー」
抱擁がじゃれあいになり、暗い部屋に二人の笑い声が響く。
まったく不安がなくなったわけではなかったが、籐矢も水穂も恐怖よりも希望を期待した。
そうなると、助かろうという気持ちも大きくなり、部屋に放置されていた金属片を使って外へ合図を送ってはどうかとアイディアも浮かんだ。
夜明けを待ち、朝日へ金属片を向けて、角度を変えながら何度もかざした。
夜が明けるまでのあいだ、二人でいろんな事を語り合った。
新人時代の失敗、フランスでの珍しい体験、家のこと、家族のこと……
話はつきなかった。
助けに来た足音に気がつかないほど、二人の会話は続いていた。