Shine Episode Ⅰ
「水穂がお世話になりました」
娘の帰りを玄関の前で待っていた香坂曜子は、籐矢に深々と頭を下げた。
一緒にいた水穂の弟の圭佑も、母親と並んで頭を下げた。
「アナタって子は……いきなり飛び出していくから、心配するじゃないの。
アナタも神崎さんにきちんとお礼を言いなさい」
曜子に言われ、借りてきた猫のように水穂は神妙に頭を下げた。
圭佑が家まで送りますと申し出たが、タクシーを拾うからいいよと、籐矢は穏やかに断り香坂邸を後にした。
籐矢を見送り、曜子が水穂の無鉄砲さをたしなめようとした時だった。
「あっ、忘れ物を思い出した。神崎さんに届けてくる」
「明日じゃだめなの? 水穂ちゃん、待ちなさい、一人はだめよ!」
曜子が止めるのも聞かず、水穂は籐矢を追いかけるため玄関を飛び出した。
大通りに出ると言った言葉を思い出し、家の前の道を左に折れると、そう遠くないところで籐矢の姿を見つけた。
「神崎さーん」
駆け寄る水穂に気がつき、籐矢が道を戻ってくる。
「どうした」
「はぁ……はぁ……さっきは家族がいたから言えなくて……」
「なんだ」
「あの……」
弾む息を整えながら、水穂は気持ちを決めた。
「レインボーブリッジで聞いた神崎さんの話、聞いてよかったです」
「そうか……」
「だから、あの……話を聞いてから判断しろって言いましたよね」
水穂は怪訝そうな顔の籐矢に近づき、飛び掛るように首に手をまわすと素早く唇を重ねた。
突然のことに余程驚いたのか、籐矢はあっけにとられている。
「私の答えです。おやすみなさい」
呆然と立っている籐矢に威勢よく告げると、水穂は来た道を戻るために身を翻した。
「おい、待て!」
ようやく状況を飲み込んだ籐矢は、水穂の腕を勢いよくつかみ引寄せた。
「早く行ってください。私、恥ずかしくて……明日は休みますから」
「ダメだ、明日はちゃんと出勤しろ。こんなことで休まれたら、有休が何日あっても足りなくなる」
「えっ? やだ、何言ってるんですか。こんなことでって、そんなに何回もありません」
籐矢の手が、バタバタと動く水穂の体を封じ込める。
「バカ、キスってのはな、男からするもんなんだよ。俺の顔を潰すな」
「またバカって言う……」
ふっと微笑むと、籐矢は水穂の憎まれ口に顔を近づけた。
強く合わされた唇から、籐矢の溢れ出た想いが注ぎ込まれ、水穂の全身に伝わっていく。
水穂は、体中が籐矢の情熱で満たされているような感覚にとらわれていた。
甘い痺れに襲われ、掴んでいたジャケットの指先から力が抜けていく。
そっと顔を離した籐矢の目が、半開きの水穂の唇をとらえた。
「……また、人工呼吸みたいだって言うつもりか?」
「うぅん、今日は合格です」
「ふん、おまえに言われたくないね」
「だって、神崎さん……うっ、うん……」
ふたたび重なった唇は、互いの想いを受け入れるように深くゆっくり求め合う。
恐怖を忘れるためでもなく、不安を拭い去るためでもない。
愛情を確かめ合うキスは、黄昏時の街の路地で長く交わされていた。