奪い婚 ~キミの嘘に唇をよせて、絡まる赤い糸をほどきたい~
「俺、仕事に行くから。また一人になるけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。私は一人じゃないから。ね、そうだよね」

 私はお腹を優しく擦る。
 ピエールはお腹に手をあて、「パパだよ。行ってくるね」と、赤ちゃんに声をかけ、私にキスを落とした。

「行ってらっしゃい」

「フローラ、行ってきます。ちゃんと戸締まりするんだよ。終わったらすぐに帰るからね」

「はい」

 私はピエールの姿が見えなくなるまで、玄関で手を振る。

 ピエールの両親はアパートの家賃を含め、毎月使い切れないほどの多額の生活費を送金してくれる。

 それは勉学に励むようにとの配慮からだったが、ピエールは生まれてくる子供を自分の力で育てたいと、プランティエ大学で勉学に勤しみながらも、毎日のように家庭教師や学習塾の講師に出掛けた。

 勤勉で誠実なピエール。
 ロンサール公爵の子息であることを鼻にかけることのない、その地道な生き方に、この人と結婚してよかったと日々感じている。

 ピエールとの暮らしに、ささやかな幸せを感じていた。

 お腹に手をあてる。
 ここに一つの命がある。

 ピエールと私の、小さな愛の結晶。

 記憶をなくした私が、平常心を失わずにすんだのは、ピエールと赤ちゃんがいたから。

 来月、私達はプランティエに親族や友人知人を招いて、挙式披露宴を執り行う。

 家族だけではなく、親族の顔も名前も忘れてしまったことに、微かな不安はあったが、ピエールの優しい眼差しと、あたたかな手のぬくもりが、唯一心の安らぎだった。
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