銀貨の代わりにあなたに愛を
グランは、伯爵邸から「ベルトランがエリーゼを訪ねて来ている」との伝言を受け取ると、事務所を飛び出した。ベルトランが……あの男が伯爵邸に?
一体なんの用で、とグランは一瞬考えたがすぐに覚った。
ベルトランがエリーゼに言うことなど決まっている。きっと過去を全て並べ立てて、俺との関係を断つようエリーゼを説得するつもりだ。自分はあの男を、ほんとうに卑劣な手を使って貶めた。純粋だった彼が豹変するほどに、その恨みは強かったはずだ……。
自分がかつて罠に嵌めた彼女に警告するのは当然だし、弁解できる余地がないことは、グランはわかっていた。
しかし、エリーゼがベルトランからそのグランの過去をきいているところを想像するともうだめだった。
頼む、エリーゼだけは。
グランはそう思う自分がいるのをはっきりと自覚した。あの笑顔がもうこちらを向いてくれなくなる、それがグランが一番恐れていることだった。言い訳できる立場ではないことはわかっていたが、それでもグランは屋敷へ向かわずにはいられなかった。
ベルを鳴らすと召使いが出迎えてくれ、ロビーに通された。召使いは「ここでお待ちください」と廊下の先へと行ってしまったが、その先にある客間での話し声は、耳のいいグランにはよく聞こえた。エリーゼの声だった。
「……あなたは昔グラン・ラグレーンのせいで全てを失ったけれど、今は取り戻している。どれだけの苦労があったかは知れないけれど、新聞で情け深い人間と称され、アンヌ様と今は幸せに暮らしている。そうでしょう?」
エリーゼの言い方はなんとも皮肉気だった。
「そうですが、しかし……!」
と、ベルトランの懐かしい声がしたが、すぐにエリーゼの声が遮った。声には怒りが含まれているのがよくわかった。
「彼から全てを奪って、まだ飽き足らないのですか? 貴族の小さな商いで経理すらしてはいけないの? あなたは彼を苦しめて幸せになっているのに、彼には幸せになる権利がないというの! エドゥアール様、あなたは彼がどんな生活を送ればご満足なの!?」
彼女の言葉は刺々しく、怒りに満ちた言葉であったが、グランは全身をぎゅっと掴まれたかのようであった。思わず両手で顔を覆った。
ああ、エリーゼはどこまで――どこまで俺の味方でいてくれるのだ!
全面的に自分に非があることは確かだった。ベルトランに頭を下げても許されないことをしたのは自分なのだ。それなのに彼女は……。
伯爵家の兄妹が出て行くと、グランは長椅子には近寄ることなく昔馴染みに向き直った。その目はしっかりと相手を見据えていた。
「ラグレーン、久しぶりだな」
エドゥアールは警戒しながら口を開いた。アンヌが不安そうにぎゅっと夫の手を握った。
しかしグランは息を吐くと、決意したような顔になった。
「ベルトラン……まずは言わせてくれ」
そう言うとグランは、その場で膝と手を床につけて頭を下げた。
「悪かった」
その信じられない光景に、エドゥアールとアンヌは驚いて顔を見合わせた。
グランはそのままの体勢で言った。
「許してもらえるとは思っていない。それだけの事をしたという自覚もある。だが、それでも謝罪をさせてくれないか」
驚いて言葉を紡げないエドゥアールだったが、アンヌは慌てたように言った。
「頭を上げてください、お立ちになって」
「いいやベルトラン夫人、まだ言わせてくれ。俺はあんたたちの情けで処刑を免れ、普通に生活ができている。一体なんで釈放なんてそんなばかな事をしたのか今でも信じられないが、とにかく俺があんたたちに生かされていることは確かなんだ。俺は……あんたたちの望む通りに生きるのでもかまわない。ほんとうにそう思っているんだ」
頭を下げたままそう言ったかつての同僚を、エドゥアールは凝視していた。
想像していたのとまるで違っていたのだ。彼は、もっと自尊心が高かった。会えば復讐返しとして、殴られるか、銃やナイフを突きつけられるだろうと思っていた。
グランの覚悟を前にしてぼうっと彼を見つめたままの夫に、アンヌは手をぎゅっと握り目で訴えた。エドゥアールは我に返って頷いた。
「わ、わかった、君の謝罪は受け入れよう。とにかく顔を上げて座って話そうじゃないか」
エドゥアールがそう言うと、ようやくグランは頭を上げ、身体を起こして立ち上がった。こうしてかつての昔馴染み達は、豪勢な客間で長椅子に座って話を始めたのである。
ラグレーン、君は……変わったな」
エドゥアールはどんな恨みつらみを述べようかと思っていたが、口に出てきたのは率直な感想だった。
「君はその、誰かに頭を下げることはとても嫌っていただろう。謝罪だなんて、想像もしていなかった」
グランもその言葉が意外だったのか目を瞬かせたが、苦笑いを浮かべた。
「あれから……いろいろあったんだ」
「牢を出ると人は変わるんだろうか……ああ、そうかもしれないな。僕だってすっかり変わった」
エドゥアールは乾いた声で笑ったが、グランは後ろめたい気持ちになった。そうだ、彼はなんでも信じる純粋でまっすぐな思いやりのある男だった……自分が罠に嵌める前までは。
しかし、アンヌが言った。
「いいえ、変わっていないわ。あなたは昔も今も、優しいもの」
アンヌはエドゥアールに微笑むと、グランに言った。
「ラグレーンさん、あなたはさっき"なぜ自分が牢獄から出たのかわからない"と言いましたね。エリーゼ様もさっき同じことを尋ねられました。私がお答えいたします。それはエドゥアールが、昔のままのエドゥアールだったからですわ」
グランはわからないというように眉を寄せた。アンヌは続けた。
「新聞には"情け"と書いてあったけれど、そんな安っぽい気持ちじゃありません。エドゥアールには昔と変わらない、真面目さがあったからです」
「真面目なもんか。あの時はほんとうに君が憎かったんだ。命だって奪ってやりたかった」
そう言ったが、エドゥアールの瞳からは憎しみの色が消え、嵐の去った波のように穏やかだった。
エドゥアールは少し遠い目をして言った。
「でも……誰にも他人の人生を奪う権利はないと思ったんだ。あんな事をされた僕でさえも」
グランの脳裏に、あの牢獄を出るときの様子が蘇った。
『……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない』
あの時のエドゥアールの苦しげな声。
エドゥアールは続けた。
「許したつもりはなかった。僕はほんとうに地獄を見たから、君も同じものを見ればいいと思った。後になってからも、ほんとうに牢から出してよかったのか自分に問うてばかりいたんだ。いつかまた、君が目の前に現れるのではないかといつも怖かった。僕はすっかり臆病になっていたんだ。この前の夜会で君を見た時は悪寒が走ったよ」
エドゥアールは小さく笑った。
「今になってわかったけど、僕は君を嵌めて陥れたということを後悔していたんだな。そこから恐怖が生まれたことで、人からなにかを奪うということは、これほどまでに罪深いものなのかと実感したんだ」
グランは眉を寄せて言った。
「違う、俺が……俺の方があんたから奪ったんだ。あんたはただ、正義を貫いただけじゃないか」
エドゥアールは肩をすくめた。
「その正義を立てるためにいろんな画策をしたんだ、正統なやり方とは程遠い。まあでも……これでおあいこということにしておかないか、ラグレーン。君もだが、僕も相当ひどい事をした」
その言葉にグランは目を見開いてしばらくエドゥアールの顔を凝視していたが、やがて下を向いて小さな震える声で「ありがとう」と呟いた。
グランの中にずっとわだかまっていたものがすうっと消えた瞬間だった。
しばらく沈黙が続いたが、アンヌが言った。
「ラグレーンさんは、ほんとうにお変わりになりましたね……素敵な女性に出会ったのことが、その原因と考えていいのかしら」
グランは、さっと顔を赤らめた。エドゥアールも頷いた。
「あんなに君のことを思ってくれている人がいるなんてね。僕自身、伯爵令嬢からあんな風に怒られるなんて思いもしなかった……。今にしてわかったけど、君には財産よりも、地位や名誉よりも、彼女のような存在が必要だったのかな」
「あら、みんなそうよ。詩人がよく言う、愛が一番強い力を持つというのもあながち間違いではないわ。人の支えとなり、強くさせてくれるんだもの」
アンヌは夫にそう言ってから、グランの方を向いた。
「王都の夜会であなたたちが恋人どうしであると聞いた時、なにか裏があるのではと思っていたけど、エリーゼ様はそんな方ではないわね。あの方はまっすぐだわ。まっすぐにあなたを想っていらっしゃる。そんな愛を受けたから、あなたも変わったのでしょうね」
一体なんの用で、とグランは一瞬考えたがすぐに覚った。
ベルトランがエリーゼに言うことなど決まっている。きっと過去を全て並べ立てて、俺との関係を断つようエリーゼを説得するつもりだ。自分はあの男を、ほんとうに卑劣な手を使って貶めた。純粋だった彼が豹変するほどに、その恨みは強かったはずだ……。
自分がかつて罠に嵌めた彼女に警告するのは当然だし、弁解できる余地がないことは、グランはわかっていた。
しかし、エリーゼがベルトランからそのグランの過去をきいているところを想像するともうだめだった。
頼む、エリーゼだけは。
グランはそう思う自分がいるのをはっきりと自覚した。あの笑顔がもうこちらを向いてくれなくなる、それがグランが一番恐れていることだった。言い訳できる立場ではないことはわかっていたが、それでもグランは屋敷へ向かわずにはいられなかった。
ベルを鳴らすと召使いが出迎えてくれ、ロビーに通された。召使いは「ここでお待ちください」と廊下の先へと行ってしまったが、その先にある客間での話し声は、耳のいいグランにはよく聞こえた。エリーゼの声だった。
「……あなたは昔グラン・ラグレーンのせいで全てを失ったけれど、今は取り戻している。どれだけの苦労があったかは知れないけれど、新聞で情け深い人間と称され、アンヌ様と今は幸せに暮らしている。そうでしょう?」
エリーゼの言い方はなんとも皮肉気だった。
「そうですが、しかし……!」
と、ベルトランの懐かしい声がしたが、すぐにエリーゼの声が遮った。声には怒りが含まれているのがよくわかった。
「彼から全てを奪って、まだ飽き足らないのですか? 貴族の小さな商いで経理すらしてはいけないの? あなたは彼を苦しめて幸せになっているのに、彼には幸せになる権利がないというの! エドゥアール様、あなたは彼がどんな生活を送ればご満足なの!?」
彼女の言葉は刺々しく、怒りに満ちた言葉であったが、グランは全身をぎゅっと掴まれたかのようであった。思わず両手で顔を覆った。
ああ、エリーゼはどこまで――どこまで俺の味方でいてくれるのだ!
全面的に自分に非があることは確かだった。ベルトランに頭を下げても許されないことをしたのは自分なのだ。それなのに彼女は……。
伯爵家の兄妹が出て行くと、グランは長椅子には近寄ることなく昔馴染みに向き直った。その目はしっかりと相手を見据えていた。
「ラグレーン、久しぶりだな」
エドゥアールは警戒しながら口を開いた。アンヌが不安そうにぎゅっと夫の手を握った。
しかしグランは息を吐くと、決意したような顔になった。
「ベルトラン……まずは言わせてくれ」
そう言うとグランは、その場で膝と手を床につけて頭を下げた。
「悪かった」
その信じられない光景に、エドゥアールとアンヌは驚いて顔を見合わせた。
グランはそのままの体勢で言った。
「許してもらえるとは思っていない。それだけの事をしたという自覚もある。だが、それでも謝罪をさせてくれないか」
驚いて言葉を紡げないエドゥアールだったが、アンヌは慌てたように言った。
「頭を上げてください、お立ちになって」
「いいやベルトラン夫人、まだ言わせてくれ。俺はあんたたちの情けで処刑を免れ、普通に生活ができている。一体なんで釈放なんてそんなばかな事をしたのか今でも信じられないが、とにかく俺があんたたちに生かされていることは確かなんだ。俺は……あんたたちの望む通りに生きるのでもかまわない。ほんとうにそう思っているんだ」
頭を下げたままそう言ったかつての同僚を、エドゥアールは凝視していた。
想像していたのとまるで違っていたのだ。彼は、もっと自尊心が高かった。会えば復讐返しとして、殴られるか、銃やナイフを突きつけられるだろうと思っていた。
グランの覚悟を前にしてぼうっと彼を見つめたままの夫に、アンヌは手をぎゅっと握り目で訴えた。エドゥアールは我に返って頷いた。
「わ、わかった、君の謝罪は受け入れよう。とにかく顔を上げて座って話そうじゃないか」
エドゥアールがそう言うと、ようやくグランは頭を上げ、身体を起こして立ち上がった。こうしてかつての昔馴染み達は、豪勢な客間で長椅子に座って話を始めたのである。
ラグレーン、君は……変わったな」
エドゥアールはどんな恨みつらみを述べようかと思っていたが、口に出てきたのは率直な感想だった。
「君はその、誰かに頭を下げることはとても嫌っていただろう。謝罪だなんて、想像もしていなかった」
グランもその言葉が意外だったのか目を瞬かせたが、苦笑いを浮かべた。
「あれから……いろいろあったんだ」
「牢を出ると人は変わるんだろうか……ああ、そうかもしれないな。僕だってすっかり変わった」
エドゥアールは乾いた声で笑ったが、グランは後ろめたい気持ちになった。そうだ、彼はなんでも信じる純粋でまっすぐな思いやりのある男だった……自分が罠に嵌める前までは。
しかし、アンヌが言った。
「いいえ、変わっていないわ。あなたは昔も今も、優しいもの」
アンヌはエドゥアールに微笑むと、グランに言った。
「ラグレーンさん、あなたはさっき"なぜ自分が牢獄から出たのかわからない"と言いましたね。エリーゼ様もさっき同じことを尋ねられました。私がお答えいたします。それはエドゥアールが、昔のままのエドゥアールだったからですわ」
グランはわからないというように眉を寄せた。アンヌは続けた。
「新聞には"情け"と書いてあったけれど、そんな安っぽい気持ちじゃありません。エドゥアールには昔と変わらない、真面目さがあったからです」
「真面目なもんか。あの時はほんとうに君が憎かったんだ。命だって奪ってやりたかった」
そう言ったが、エドゥアールの瞳からは憎しみの色が消え、嵐の去った波のように穏やかだった。
エドゥアールは少し遠い目をして言った。
「でも……誰にも他人の人生を奪う権利はないと思ったんだ。あんな事をされた僕でさえも」
グランの脳裏に、あの牢獄を出るときの様子が蘇った。
『……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない』
あの時のエドゥアールの苦しげな声。
エドゥアールは続けた。
「許したつもりはなかった。僕はほんとうに地獄を見たから、君も同じものを見ればいいと思った。後になってからも、ほんとうに牢から出してよかったのか自分に問うてばかりいたんだ。いつかまた、君が目の前に現れるのではないかといつも怖かった。僕はすっかり臆病になっていたんだ。この前の夜会で君を見た時は悪寒が走ったよ」
エドゥアールは小さく笑った。
「今になってわかったけど、僕は君を嵌めて陥れたということを後悔していたんだな。そこから恐怖が生まれたことで、人からなにかを奪うということは、これほどまでに罪深いものなのかと実感したんだ」
グランは眉を寄せて言った。
「違う、俺が……俺の方があんたから奪ったんだ。あんたはただ、正義を貫いただけじゃないか」
エドゥアールは肩をすくめた。
「その正義を立てるためにいろんな画策をしたんだ、正統なやり方とは程遠い。まあでも……これでおあいこということにしておかないか、ラグレーン。君もだが、僕も相当ひどい事をした」
その言葉にグランは目を見開いてしばらくエドゥアールの顔を凝視していたが、やがて下を向いて小さな震える声で「ありがとう」と呟いた。
グランの中にずっとわだかまっていたものがすうっと消えた瞬間だった。
しばらく沈黙が続いたが、アンヌが言った。
「ラグレーンさんは、ほんとうにお変わりになりましたね……素敵な女性に出会ったのことが、その原因と考えていいのかしら」
グランは、さっと顔を赤らめた。エドゥアールも頷いた。
「あんなに君のことを思ってくれている人がいるなんてね。僕自身、伯爵令嬢からあんな風に怒られるなんて思いもしなかった……。今にしてわかったけど、君には財産よりも、地位や名誉よりも、彼女のような存在が必要だったのかな」
「あら、みんなそうよ。詩人がよく言う、愛が一番強い力を持つというのもあながち間違いではないわ。人の支えとなり、強くさせてくれるんだもの」
アンヌは夫にそう言ってから、グランの方を向いた。
「王都の夜会であなたたちが恋人どうしであると聞いた時、なにか裏があるのではと思っていたけど、エリーゼ様はそんな方ではないわね。あの方はまっすぐだわ。まっすぐにあなたを想っていらっしゃる。そんな愛を受けたから、あなたも変わったのでしょうね」