この恋は少しずつしか進まない
私の名前を知ってるんだから知り合いなのは確かなんだけど、ただの知り合いならこんなに心臓が速くなることはない。
振り向きたくない。でも、振り向きたい。
そんな葛藤を数秒間繰り返している間に、背後からカツカツと足音が近づいてきていた。
……ドクン、ドクン。
「伊織」と、疑問形ではなく、確信ある言葉で呼ばれて、私は覚悟を決めてゆっくりと振り向いた。
「……辰己さん」
それは紛れもなく、ずっと心に引っ掛かり続けていた彼の姿だった。
辰己さんはスーツ姿だった。ネクタイをしっかりと絞めて広い肩幅に精悍な顔つきは一年前となんにも変わらない。
「久しぶり」
辰己さんはなんの躊躇いもなく笑いかける。
まだ心臓がうるさい。こんなところで会うなんて思わなかった。
でも大通りのほうに行けばオフィスビルが多くあるし、もしかしたら取引先の関係でここにいたのかもしれないと、ぐるぐると頭の中で憶測を立てる。
「元気そうだね」
「う、うん。辰己さんも」
動揺を必死に隠しながら声を出した。
いつもペラペラと動く口が、まるで塞がれているみたいに言葉が出ない。すると、辰己さんは左手にしている腕時計を確認した。
それは、新しいものが欲しいと付き合ってた時に一緒に選んだ時計のままだった。
別れてからもしてくれていて嬉しいような、別に元カノと選びに行ったからって買い直す必要もないという大人の余裕が寂しいような、複雑な気分。
「ねえ、ちょっと時間ある?」
「え?」
「少し話さない?」
笑うと浮かび上がるえくぼ。
話したところで、この心臓が落ち着くことはないというのに、気づくと私は小さく頷いていた。