京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯
「はあ~……」

 キャリーバッグを部屋の片隅に置き、思わずため息が出た。

 今日の朝、私は東京にいた。何の希望もなく、何の未来もなく。

 東京駅のポスターを見て、京都行きの新幹線に飛び乗った。

 スマートフォンで検索して伏見稲荷大社に行こうとして、人が多すぎてやめたところを「神様見習い」真人に捕まった。

 最初は何かの冗談だと思っていたけど、本当らしい。

「平安旅館」は夢でも幻でもないのに。それどころか、案内された部屋はひとりで使うにはもったいないくらい、ゆったりした広さで、清潔で、窓からの眺めもまったく申し分ない。

 中庭の植木や石が、パンフレットに載っていた通り、とても素晴らしい。日本の美の極致みたいな庭だ。

 その庭を眺めて、私は今日どこでどう間違えてしまったのか考えていたとき、部屋の扉が乱暴に叩かれた。

「おい。何してんだ。寝てんのか」

 差し当たっては本日最大の間違い、真人が大声を出している。

 部屋に入ろうとしないだけの最低限のデリカシーがあって助かった。

「もうっ。いま行きます!」

 部屋を出ると真人が仏頂面で立っている。

「まったく。おまえが腹減ってるなんていうから、小宴会場まで案内してやろうっていうのに」

 本当にこの人は口が悪い。こんなので神様になれるのかしら。

 この旅館にはいくつか宴会場があるみたいだった。

 中でも、大宴会場は毎晩、宿泊者がみんな集まって夕食を取るのだという。

 案内された小宴会場は、大宴会場から適度に離れていた。しかも、厨房からは近い。なるほど、中途半端な時間にこっそりご飯を食べるにはうってつけだった。

 私が真人に案内されてその部屋に行くと、ちょうど舞子さんがお膳を持ってきてくれたところだった。

「私がいま御帳場を覗いて適当に作らせてもらいました。京都のおばんざい、というには簡単すぎるかも知れへんけど」と舞子さんが謙遜していた。

 お膳を見て思わず声が出てしまった。

「わあ……」

 ご飯は白くつやつやと輝いていて、ほかほかの湯気が立っていた。

 豆腐だけのおすましは、これはいま早急に作ってくれたらしい。

 おかずは厚焼きの玉子焼きとたらこを焼いたもの。

 もう十分すぎる。

 しかも、着物美人の女将の舞子さんが、一見さんの私のために自分の手で作ってくれたのだ。それだけで涙ものだ。

 本当のいい旅館のサービスってここまでしてくれるものなのかな。

 舞子さんにお礼を言う。

 感動の気持ちを噛みしめながら両手を合わせて、いただきますをしようとしたときだった。

 横から突然、男の手が伸びて玉子焼きを一切れつまみ上げた。

「ああーっ! 何てことすんのよ」

 真人が舞子さんの厚焼き玉子を奪い取ったのだ。そのまま自分の口の中へ。私、まだ一切れも食べていないのに。これのどこが神様見習いなんだ。夕食前の小学生男子レベルじゃないか。

 私が嫌悪感丸出しで真人を見ていたら、あろうことかこの人は言った。

「……まずい」

「ちょっと、あなたね! 人の料理を横取りした挙げ句、女将さんの料理にケチつけるつもり?」

「まずいものは、まずいんだよ」

 そう言いながら真人は、さらにおつゆを飲み、焼きたらこも失敬した。

「ちょっと!」

「……すげえ、まずい。舞子さんがこいつに何か食わせるって言いだしたときからこんなことになるような予感がしてたけど、これ、何入れたんだよ」

 因縁をつけるような顔つきの真人に対し、舞子さんはおっとり構えている。

 こんな美人の女将さんが、そんなまずいもの作るわけないではないか。

 自分がおまんじゅうをおいしく作れることで、女将さんに対抗意識を燃やしているのだろうか。

 女将さんの冤罪を晴すべく、私が箸を伸ばしたとき、女将さんが言った。

「玉子焼きの中にはウスターソースと和三盆で煮からめた切り干し大根入れました。おつゆはお塩を一握りどばっと。たらこは旨味を出すためにケチャップを塗りながら焼きました」

 思わず箸が止まった。

「女将さん、本当ですか」

「トマトには旨味成分のグルタミン酸が多く含まれているんですよ」

 いや、その組み合わせはないだろう。

 思わず真人の顔を見てしまう。真人がお茶で口の中をさっぱりさせていた。

「厚焼き玉子の中に切り干し大根を入れるのはありなんだが、その味付けはないな。他のものについても論外だ」

「あらあら」

 ズボンからハンカチを取り出して口周りを何度もぬぐった真人が、顔をしかめたまま言った。

「おい、巫女見習い。それ、毒だから食うなよ。俺が作ってやるから待ってろ」

「毒って……」

 相変わらず口が悪い。でも、女将さんの方はのんびりした顔つきのまま。ひょっとしたら表情に出さないだけで、すごくお怒りなのかも知れないけど。

「おいしいんやけどねえ」と舞子さんが残りの玉子焼きや焼きたらこをひょいひょいと食べている。「たしかにちょっと『あれんじ』させすぎましたかしらねえ」

 あれ、普通に食べてる。ひょっとしておいしかったんじゃ……?

 そう思って残っているおつゆをひと口飲んでみたら、めまいがするほどしょっぱかった。真人の言っていたことの方が正しいようだ。

 そのおつゆも、舞子さんは平然と飲んでしまったけど。
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