京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯
真人の鯛茶漬けは絶品だった。
と言っても、夕飯が食べられなくなるほどでもなく、その辺りまで計算してくれているのは、正直にすごい。
食べ終わったお膳も真人と舞子さんが片付けに行ってしまったので、私は館内案内の書いてあるパンフレットを片手にゆっくりと館内を歩いてみることにした。
自分も宿に泊まることに決めたことと、お腹に余裕ができたからだろうか。周りのお客さんたちのこともさっきよりよく見えるような気がする。
舞子さんが「訳あり」のお客さんがなぜか多く集まってくると言っていたので、気になっていたのだ。
「訳あり」っていうとやっぱり、誰かに追われていたり、仇を探していたり、逃亡犯だったりするのだろうか。それは刑事ドラマの見過ぎか。
大浴場の前の休憩処では、私と一緒に送迎車に乗ってきた家族連れが一休みしていた。夕食前に一風呂浴びたのか、浴衣姿でのんびりしている。
大きいお風呂が楽しかったのか、男の子がはしゃいでいた。
「ねえ、ママ、ママ。あっちに家族湯があるんだって」
「そう。いまはいいわ。ちょっとゆっくりさせて」
「パパ、今度の学校があるのは温泉がある所なんだよね」
「ああ、そうだ。休みの日には温泉巡りでもしよう」
「ふーん、そうなの」
ひとり暮らしのアパートでは大きな湯船はそれだけで幸せだ。このまま入ってしまおうか、それとも一旦部屋に戻って浴衣を持ってこようか。
「よかったら、浴衣をお持ちしましょうか」
「きゃっ」
背後から声をかけられてびっくりした。
声をかけてきたのは近森さんだった。
「申し訳ありません、天河様。驚かせるつもりはなかったのですけど」
「あ、いえ。私が勝手に驚いているだけなんで、大丈夫です」
「女将から天河様が大浴場の方へ行かれたので、お声がけするように言われておりましたもので」
さすが京都の旅館の女将さん。細かいところまで見ているんだな。けど、
「……女将さんって、何者なんですか」
とんでもない料理作って食べるし。
近森さんが困ったような笑顔になった。
「いい方だ、としか私にも分からないんですよ。何しろ神様見習いを居候に受け入れるくらいですから、懐が深い方なんだと思います」
「近森さんも、神様見習いって、その、受け入れているんですか」
「ええ、まあ」と近森さんが苦笑した。「ここだけの話、私も昔、この宿で女将さんに心の重荷を救ってもらった『訳あり』の客だったんです。だから、女将さんのこと、信じてるんです」
その言葉が、何だか私の胸がずきんと痛んだ。
近森さんのことを、美人の仲居さんとしか思っていなかった自分が恥ずかしい。
彼女だって私と同じで生きている人間なんだ。
悩みもすればつらいこともあっただろう。
「あ、何か、変なこと聞いちゃったみたいですね。ごめんなさい」
しかし、近森さんはかえって恐縮したような顔で首を振った。
「いいえ! 私こそ、つい気安く自分のことなんて話しちゃって、天河様に気を使わせてしまいました」
そこへ、年配のご夫婦が近森さんに声をかけた。
「近森さん、お世話になりました」
「ああ、水島様、こちらこそありがとうございました」
「おかげさまでゆっくり心を伸ばすことができました。もう大丈夫です」
夫婦水入らずで京都の隠れ家お宿で羽を伸ばしていた、というには、何となく近森さんへの感謝の気持ちが深いように見えた。丁寧にパーマをあてた奥さんの方は、うっすら涙ぐんでハンカチを目に当てていた。ひょっとしたらこのご夫婦も、心の重荷を背負ってこの宿に来ていたのかもしれない。
老夫婦は何度も何度も感謝の言葉を繰り返して、受付の方へ歩いて行った。
その後ろ姿は互いに支え合い、かばい合っているおしどり夫婦そのものだ。
「お客様の個人的なご事情は守秘義務ですから具体的なところはお話しできませんけど、あのご夫婦も……」
近森さんがそう言って目配せした。
どんな事情を抱えてあの夫婦が来たのか、私には分からない。
どんな答えを出してこの宿を去って行くのかも、当然分からない。
でも、あの後ろ姿を見る限り、何だか大丈夫な気がする。
「訳あり」のお客さん、か。
そう考えれば私だってそうだ。
仕事もなくなり彼氏にも振られて、ここにやってきたのだから。
感傷的な気持ちになっていると、今度は女性の声が近森さんを呼んだ。
「みっいーちゃーん」
声をかけたのは上機嫌の女性。目がとろんとなっていて顔が赤い。
きちんとしていれば清潔感のある女性に見えるだろう。
長い髪は緩くパーマをかけていてお化粧もきれいにしているし、春らしいブラウスを着ていて、さっぱりしているし。いわゆる仕事ができる女性のファッションだと思う。
スレンダーで、四十代くらいに見えるけど、実は五十歳ですという可能性も否定できない。年齢不詳の美人キャリアウーマンといったところ。
しかし、びっくりするほどお酒くさい。よくそんなに飲めるな……。
「いかがなさいましたか、大沢様」
近森さんの受け答えに、大沢と呼ばれた女性は、にこやかに笑いながら片手に持ったタブレットをぶんぶん振った。
「『大沢様』なんて他人行儀な呼び方はしないでっていつも言ってるじゃない。文恵さんでいいのよ、文恵さん。なんなら、文ちゃんでもいいのよ?」
たしかに名字に様付けというのは、お客様なのだからそうなのだろうけど、やっぱりこそばゆい感じがする。私もできれば下の名前で呼んで欲しいのだが……。
「では、文恵さん。いかがなさいましたか」
「あのね、お酒なくなっちゃってさ。大宴会場で飲めるの何時からだっけ」
「あと十分くらいですよ」
近森さんの答えを聞いて文恵さんが万歳して喜んだ。まだ飲むらしい。近森さんが、文恵さんに、くれぐれも酔ったまま風呂に入らないでくださいと案内していた。
「伏見はお酒がおいしいじゃなーい? 安土桃山時代から有名なんでしょ? 飲まなきゃ飲まなきゃー」
「お詳しいですね。お水がすばらしいですから。ここから南の桃山のほうにある御香宮神社は『伏見の御香水』として有名ですし」
「それそれ。おいしいお水のおいしいお酒よ」
文恵さんが何だかんだと近森さんに絡んでいるそのとき、私のスマートフォンが震える。
着信だ。ディスプレイに表示された発信元は「お母さん」。
その文字が私を急に、京都の隠れ家お宿から、現実の世界に放り込んだ。
と言っても、夕飯が食べられなくなるほどでもなく、その辺りまで計算してくれているのは、正直にすごい。
食べ終わったお膳も真人と舞子さんが片付けに行ってしまったので、私は館内案内の書いてあるパンフレットを片手にゆっくりと館内を歩いてみることにした。
自分も宿に泊まることに決めたことと、お腹に余裕ができたからだろうか。周りのお客さんたちのこともさっきよりよく見えるような気がする。
舞子さんが「訳あり」のお客さんがなぜか多く集まってくると言っていたので、気になっていたのだ。
「訳あり」っていうとやっぱり、誰かに追われていたり、仇を探していたり、逃亡犯だったりするのだろうか。それは刑事ドラマの見過ぎか。
大浴場の前の休憩処では、私と一緒に送迎車に乗ってきた家族連れが一休みしていた。夕食前に一風呂浴びたのか、浴衣姿でのんびりしている。
大きいお風呂が楽しかったのか、男の子がはしゃいでいた。
「ねえ、ママ、ママ。あっちに家族湯があるんだって」
「そう。いまはいいわ。ちょっとゆっくりさせて」
「パパ、今度の学校があるのは温泉がある所なんだよね」
「ああ、そうだ。休みの日には温泉巡りでもしよう」
「ふーん、そうなの」
ひとり暮らしのアパートでは大きな湯船はそれだけで幸せだ。このまま入ってしまおうか、それとも一旦部屋に戻って浴衣を持ってこようか。
「よかったら、浴衣をお持ちしましょうか」
「きゃっ」
背後から声をかけられてびっくりした。
声をかけてきたのは近森さんだった。
「申し訳ありません、天河様。驚かせるつもりはなかったのですけど」
「あ、いえ。私が勝手に驚いているだけなんで、大丈夫です」
「女将から天河様が大浴場の方へ行かれたので、お声がけするように言われておりましたもので」
さすが京都の旅館の女将さん。細かいところまで見ているんだな。けど、
「……女将さんって、何者なんですか」
とんでもない料理作って食べるし。
近森さんが困ったような笑顔になった。
「いい方だ、としか私にも分からないんですよ。何しろ神様見習いを居候に受け入れるくらいですから、懐が深い方なんだと思います」
「近森さんも、神様見習いって、その、受け入れているんですか」
「ええ、まあ」と近森さんが苦笑した。「ここだけの話、私も昔、この宿で女将さんに心の重荷を救ってもらった『訳あり』の客だったんです。だから、女将さんのこと、信じてるんです」
その言葉が、何だか私の胸がずきんと痛んだ。
近森さんのことを、美人の仲居さんとしか思っていなかった自分が恥ずかしい。
彼女だって私と同じで生きている人間なんだ。
悩みもすればつらいこともあっただろう。
「あ、何か、変なこと聞いちゃったみたいですね。ごめんなさい」
しかし、近森さんはかえって恐縮したような顔で首を振った。
「いいえ! 私こそ、つい気安く自分のことなんて話しちゃって、天河様に気を使わせてしまいました」
そこへ、年配のご夫婦が近森さんに声をかけた。
「近森さん、お世話になりました」
「ああ、水島様、こちらこそありがとうございました」
「おかげさまでゆっくり心を伸ばすことができました。もう大丈夫です」
夫婦水入らずで京都の隠れ家お宿で羽を伸ばしていた、というには、何となく近森さんへの感謝の気持ちが深いように見えた。丁寧にパーマをあてた奥さんの方は、うっすら涙ぐんでハンカチを目に当てていた。ひょっとしたらこのご夫婦も、心の重荷を背負ってこの宿に来ていたのかもしれない。
老夫婦は何度も何度も感謝の言葉を繰り返して、受付の方へ歩いて行った。
その後ろ姿は互いに支え合い、かばい合っているおしどり夫婦そのものだ。
「お客様の個人的なご事情は守秘義務ですから具体的なところはお話しできませんけど、あのご夫婦も……」
近森さんがそう言って目配せした。
どんな事情を抱えてあの夫婦が来たのか、私には分からない。
どんな答えを出してこの宿を去って行くのかも、当然分からない。
でも、あの後ろ姿を見る限り、何だか大丈夫な気がする。
「訳あり」のお客さん、か。
そう考えれば私だってそうだ。
仕事もなくなり彼氏にも振られて、ここにやってきたのだから。
感傷的な気持ちになっていると、今度は女性の声が近森さんを呼んだ。
「みっいーちゃーん」
声をかけたのは上機嫌の女性。目がとろんとなっていて顔が赤い。
きちんとしていれば清潔感のある女性に見えるだろう。
長い髪は緩くパーマをかけていてお化粧もきれいにしているし、春らしいブラウスを着ていて、さっぱりしているし。いわゆる仕事ができる女性のファッションだと思う。
スレンダーで、四十代くらいに見えるけど、実は五十歳ですという可能性も否定できない。年齢不詳の美人キャリアウーマンといったところ。
しかし、びっくりするほどお酒くさい。よくそんなに飲めるな……。
「いかがなさいましたか、大沢様」
近森さんの受け答えに、大沢と呼ばれた女性は、にこやかに笑いながら片手に持ったタブレットをぶんぶん振った。
「『大沢様』なんて他人行儀な呼び方はしないでっていつも言ってるじゃない。文恵さんでいいのよ、文恵さん。なんなら、文ちゃんでもいいのよ?」
たしかに名字に様付けというのは、お客様なのだからそうなのだろうけど、やっぱりこそばゆい感じがする。私もできれば下の名前で呼んで欲しいのだが……。
「では、文恵さん。いかがなさいましたか」
「あのね、お酒なくなっちゃってさ。大宴会場で飲めるの何時からだっけ」
「あと十分くらいですよ」
近森さんの答えを聞いて文恵さんが万歳して喜んだ。まだ飲むらしい。近森さんが、文恵さんに、くれぐれも酔ったまま風呂に入らないでくださいと案内していた。
「伏見はお酒がおいしいじゃなーい? 安土桃山時代から有名なんでしょ? 飲まなきゃ飲まなきゃー」
「お詳しいですね。お水がすばらしいですから。ここから南の桃山のほうにある御香宮神社は『伏見の御香水』として有名ですし」
「それそれ。おいしいお水のおいしいお酒よ」
文恵さんが何だかんだと近森さんに絡んでいるそのとき、私のスマートフォンが震える。
着信だ。ディスプレイに表示された発信元は「お母さん」。
その文字が私を急に、京都の隠れ家お宿から、現実の世界に放り込んだ。