京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯
大宴会場はかなりの広さだった。全館のお客さんが夕食と朝食をここでとるようになっているのだから、広くて当然だ。
二列に長い座卓がずらりと並べてあり、座布団の数は人数以上に並べられている。そこに適当に座ると仲居さんがお膳を持ってきてくれた。
今日は空いている方だと美衣さんが教えてくれた。さっき、美衣さんに挨拶して出ていった老夫婦以外に、家族連れとOL三人連れが宿を引き払ったのだという。
その全員が訳ありのお客さんだったのだろうか。
何はともあれ、おかげで大宴会場は広々している。
酔っ払いの文恵さんは大宴会場に着くと自分の足で壁際の隅の方に座った。定位置があるようだ。座椅子の背もたれに上体を預けて、タブレットを操りながら、さっそく日本酒を舐めはじめる。動画でも見ているんだろうか。
さっきぶつかってしまった聡一くんのご家族ももう来ている。ご両親の間に聡一くんが座っている。お膳の料理を笑顔であれこれ指さして、お父さんやお母さんにどんな食べ物か聞いているみたいだ。普通に大人向けのお膳だけど、ちゃんと食べきれるのだろうか。
他には女性のひとり客がいた。私よりは年上だろう。後ろで軽くまとめただけの髪型だけど、断言する。あの人は美人だ。姿勢もいいからたぶん体育会系の美人だと思われる。小学校の頃に通っていたスイミング以外は文化系の私とは、最も縁遠い存在かも知れない。
私は空いている座布団で、どのお客さんからもそれなりに離れているところに座ろうとして、ふと悩んでしまった。広い宴会場でそんなに離れて座っては配膳の仲居さんに迷惑ではないか。しかし、他のお客さんのそばに気軽に座る勇気もない。
一瞬の戸惑いを何と判断したのか、私の後ろについてきた真人がまた変なことを言った。
「よし、おまえの席を俺が確保してやろう」
「自分の座る所くらい自分で決めます」
しかし、真人はそのまま大宴会場へ入っていってしまう。
真人はまず、文恵さんのところに顔を出した。距離があるからふたりで何を話しているのか分からないけど、文恵さん、いい顔していない。タブレットを抱きかかえて、不機嫌そうにしている。食い下がる真人。食い下がるな。
「ちょっと、彩夢ちゃーん。この人何とかしてー」
文恵さんがとうとう私を呼びつけた。
「あ、ごめんなさい。この人、何かしましたか」
「ときどきまかないでおつまみ作ってくれたりしてくれるから悪い人じゃないって知ってるけど、ごめん、飲むときは基本ひとりがいいの」
私が頭を下げて謝っているうちに、真人はどこかへ行ってしまった。
見れば、今度は眼鏡をかけたひとり客の女性のところに真人がふらっと寄っている。どんなちょっかいを出そうというのだ。
近づくと案の定、女性が気分を害されていた。
「困ります、そういうの」
「人間ってそういうものなんだろ。大人しく言うことを聞いておけ」
ものすごく怪訝そうな顔で真人が見られてる。近づくとよく分かる。やっぱりこの人、美人だ。運動をきちんとやった人特有の凜々しいきれいさ。
だから、怒っているいまの顔はとても怖い。
「すみません。この人、失礼なことしましたか」
「急に来て『人間はひとりじゃ寂しいんだろ。こっちにもひとりのがいるから一緒に飯食っていいか』って。言い方があんまりでしょ」
真人、客商売不向きすぎ。旅館の評判落とすから、居候ということも黙っていた方がいい……。
その女性に何度も頭を下げて謝ると、私は真人を引っ張っていった。
「あなた、一体何がしたいの?」
「おまえが一緒に食事できる相手を探しているんだ。感謝しろ」
「あのねぇ……」
ちょっと頭が痛くなってきた。
「さっき、大浴場の前で、おまえは近森さんと文恵さんのふたりと仲良くなってうれしそうにしていたじゃないか」
「あ、あれは――」
ひょっとして真人は一応私のことを考えていてくれたのだろうか。
「人間というのが弱い生き物だから、誰かと一緒にいたがるのだろ? 馬鹿馬鹿しい限りだが、自分自身の心の中にすべてがあると言われても何も分からない、魂が未発達な人間にはそれも大事なことだと思えばこそ――」
やはり致命的に何かがずれている。
「人間には適度な距離感っていうのが大事なんです」
と、説教しておいたが、果たしてどこまで心に届いたことやら……。
それにしても、真人のおかげでご飯を食べにくくなってしまった。コミュ力が高い人なら、真人の愚行蛮行をネタに誰かにお近づきになることもできるのだろうけど。
そんなことを考えていたとき、聡一くんが私に声をかけた。
「お姉さん、こっちの席空いてるよ」
たれ眉の小学生男子が気遣ってくれました。
本当に優しい子だ。
少しシャープな顔つきのお母さんの方はこちらに目も合わさないで無表情だったけど、お父さんの方が「よかったら、どうぞ」と笑顔で勧めてくれた。やっぱりこうして見ると、聡一くん、お父さん似だね。
私は真人が余計なことを言わないか念を張りながら、聡一くん家族のそばに腰を落ち着けた。座るときに、聡一くんのお母さんとやっと軽く会釈できた。
「ありがとう、聡一くん」
「みんなで食べた方がおいしいって、ママもいつも言ってたもんね」
「そうね」とお母さんがこちらを見ないで頷いた。ほんとに座っていいのかな。
真人も私の隣に座った。美衣さんが私たちのお膳は運んでくれる。
お膳にはご飯にお味噌汁、お刺身、ひとり用のお鍋、副菜などがいくつかとデザートのカットフルーツが載せられていた。「旅館の夕食」と言われて誰しもイメージするような内容だ。
お刺身はマグロと真鯛、サーモンとハマチ。さっきの鯛茶漬けの出所はここだったかもしれない。
「お刺身おいしい」と聡一くんがお父さんとお母さんに話しかけていた。
「聡一くん、お刺身好きなの?」
「うん」
小さな口にご飯をちょこちょこと運ぶ姿が小動物っぽい。
「聡一くん、私のお刺身、まだ手をつけてないからよかったら食べる?」
その言葉に聡一くんの顔が、分かりやすくぱっと笑顔になった。でも、人の物をそのままもらうのはやはり気が引けるらしく、お父さんの顔を見た。
「あなたの食べる物がなくなってしまうじゃないですか」
「大丈夫です。お刺身は昼に食べてきたので」
空腹のあまり、先に鯛茶漬けでいただきましたとはさすがに言えない。
私がもう一度勧めると、お父さんが頭を下げた。
「そうですか。じゃあ、ありがたく。聡一、ちゃんとお礼を言いなさい」
「お姉さん、ありがとうございます」
聡一くんのお膳を確認する。量的に多すぎるということはないかもしれないが、
「おい、子供。ほうれん草は苦手か?」
と、真人が雑な言い方で尋ねると、聡一くんが照れたような笑いを浮かべた。
「少し苦手……」
お膳の中でほうれん草のごま和えがまったく手をつけられていない。もし、好きな物を後にとっておくタイプなら、私の分も上げようと思ったけど、まあ、このくらいの子供だとほうれん草は苦手な子が多いよね。ごま和えって食べ物自体、渋いし。
「ダメだぞ、ちゃんと食わないと勝てないぞ」何と戦うのか。
聡一くんがもう一度お父さんを確かめた。お父さんが苦笑しながら、「ちゃんと食べないとな」と言っている。
「ニンジンなら食べられる……」
「でも、ハンバーグについている甘いニンジンだけじゃないか」
お父さんにダメ出しされて、聡一くんが顔だけで泣いている。この子、かわいいな。
横合いから真人が手を伸ばして、聡一くんのお膳からほうれん草のごま和えの小鉢を取り上げた。
「あっ……」と聡一くんが驚いているのを尻目に、真人はさっさと聡一くんのほうれん草のごま和えに箸をつけてしまった。
「ちょっと、真人」
相変わらずこいつは何をやっているのか。
「巫女見習いのおまえが刺身をこの子供にやった。そのせいでこの子供のお膳は一人前より多くなってしまった。いくらこの子供が食欲旺盛でも、残してしまうかもしれない。残ってしまったら食べ物がもったいない。巫女見習いの不手際は俺が背金をとらなければいけない。だから俺がもらう」
薄々気づいていたけれど、この人は食べ物に感しては扱いが丁寧だと思う。せめてその半分くらいでも人に対して優しくなれないものか。
いや、でも。
何だかんだと理由をつけて聡一くんの苦手なほうれん草を食べてあげたのだから、少しは優しいところもあるのかもしれない。
こういう性格を何ていうのだったろうか。
そうだ。
こんな人のことは、たぶんこういうのだった。
不器用――と。
二列に長い座卓がずらりと並べてあり、座布団の数は人数以上に並べられている。そこに適当に座ると仲居さんがお膳を持ってきてくれた。
今日は空いている方だと美衣さんが教えてくれた。さっき、美衣さんに挨拶して出ていった老夫婦以外に、家族連れとOL三人連れが宿を引き払ったのだという。
その全員が訳ありのお客さんだったのだろうか。
何はともあれ、おかげで大宴会場は広々している。
酔っ払いの文恵さんは大宴会場に着くと自分の足で壁際の隅の方に座った。定位置があるようだ。座椅子の背もたれに上体を預けて、タブレットを操りながら、さっそく日本酒を舐めはじめる。動画でも見ているんだろうか。
さっきぶつかってしまった聡一くんのご家族ももう来ている。ご両親の間に聡一くんが座っている。お膳の料理を笑顔であれこれ指さして、お父さんやお母さんにどんな食べ物か聞いているみたいだ。普通に大人向けのお膳だけど、ちゃんと食べきれるのだろうか。
他には女性のひとり客がいた。私よりは年上だろう。後ろで軽くまとめただけの髪型だけど、断言する。あの人は美人だ。姿勢もいいからたぶん体育会系の美人だと思われる。小学校の頃に通っていたスイミング以外は文化系の私とは、最も縁遠い存在かも知れない。
私は空いている座布団で、どのお客さんからもそれなりに離れているところに座ろうとして、ふと悩んでしまった。広い宴会場でそんなに離れて座っては配膳の仲居さんに迷惑ではないか。しかし、他のお客さんのそばに気軽に座る勇気もない。
一瞬の戸惑いを何と判断したのか、私の後ろについてきた真人がまた変なことを言った。
「よし、おまえの席を俺が確保してやろう」
「自分の座る所くらい自分で決めます」
しかし、真人はそのまま大宴会場へ入っていってしまう。
真人はまず、文恵さんのところに顔を出した。距離があるからふたりで何を話しているのか分からないけど、文恵さん、いい顔していない。タブレットを抱きかかえて、不機嫌そうにしている。食い下がる真人。食い下がるな。
「ちょっと、彩夢ちゃーん。この人何とかしてー」
文恵さんがとうとう私を呼びつけた。
「あ、ごめんなさい。この人、何かしましたか」
「ときどきまかないでおつまみ作ってくれたりしてくれるから悪い人じゃないって知ってるけど、ごめん、飲むときは基本ひとりがいいの」
私が頭を下げて謝っているうちに、真人はどこかへ行ってしまった。
見れば、今度は眼鏡をかけたひとり客の女性のところに真人がふらっと寄っている。どんなちょっかいを出そうというのだ。
近づくと案の定、女性が気分を害されていた。
「困ります、そういうの」
「人間ってそういうものなんだろ。大人しく言うことを聞いておけ」
ものすごく怪訝そうな顔で真人が見られてる。近づくとよく分かる。やっぱりこの人、美人だ。運動をきちんとやった人特有の凜々しいきれいさ。
だから、怒っているいまの顔はとても怖い。
「すみません。この人、失礼なことしましたか」
「急に来て『人間はひとりじゃ寂しいんだろ。こっちにもひとりのがいるから一緒に飯食っていいか』って。言い方があんまりでしょ」
真人、客商売不向きすぎ。旅館の評判落とすから、居候ということも黙っていた方がいい……。
その女性に何度も頭を下げて謝ると、私は真人を引っ張っていった。
「あなた、一体何がしたいの?」
「おまえが一緒に食事できる相手を探しているんだ。感謝しろ」
「あのねぇ……」
ちょっと頭が痛くなってきた。
「さっき、大浴場の前で、おまえは近森さんと文恵さんのふたりと仲良くなってうれしそうにしていたじゃないか」
「あ、あれは――」
ひょっとして真人は一応私のことを考えていてくれたのだろうか。
「人間というのが弱い生き物だから、誰かと一緒にいたがるのだろ? 馬鹿馬鹿しい限りだが、自分自身の心の中にすべてがあると言われても何も分からない、魂が未発達な人間にはそれも大事なことだと思えばこそ――」
やはり致命的に何かがずれている。
「人間には適度な距離感っていうのが大事なんです」
と、説教しておいたが、果たしてどこまで心に届いたことやら……。
それにしても、真人のおかげでご飯を食べにくくなってしまった。コミュ力が高い人なら、真人の愚行蛮行をネタに誰かにお近づきになることもできるのだろうけど。
そんなことを考えていたとき、聡一くんが私に声をかけた。
「お姉さん、こっちの席空いてるよ」
たれ眉の小学生男子が気遣ってくれました。
本当に優しい子だ。
少しシャープな顔つきのお母さんの方はこちらに目も合わさないで無表情だったけど、お父さんの方が「よかったら、どうぞ」と笑顔で勧めてくれた。やっぱりこうして見ると、聡一くん、お父さん似だね。
私は真人が余計なことを言わないか念を張りながら、聡一くん家族のそばに腰を落ち着けた。座るときに、聡一くんのお母さんとやっと軽く会釈できた。
「ありがとう、聡一くん」
「みんなで食べた方がおいしいって、ママもいつも言ってたもんね」
「そうね」とお母さんがこちらを見ないで頷いた。ほんとに座っていいのかな。
真人も私の隣に座った。美衣さんが私たちのお膳は運んでくれる。
お膳にはご飯にお味噌汁、お刺身、ひとり用のお鍋、副菜などがいくつかとデザートのカットフルーツが載せられていた。「旅館の夕食」と言われて誰しもイメージするような内容だ。
お刺身はマグロと真鯛、サーモンとハマチ。さっきの鯛茶漬けの出所はここだったかもしれない。
「お刺身おいしい」と聡一くんがお父さんとお母さんに話しかけていた。
「聡一くん、お刺身好きなの?」
「うん」
小さな口にご飯をちょこちょこと運ぶ姿が小動物っぽい。
「聡一くん、私のお刺身、まだ手をつけてないからよかったら食べる?」
その言葉に聡一くんの顔が、分かりやすくぱっと笑顔になった。でも、人の物をそのままもらうのはやはり気が引けるらしく、お父さんの顔を見た。
「あなたの食べる物がなくなってしまうじゃないですか」
「大丈夫です。お刺身は昼に食べてきたので」
空腹のあまり、先に鯛茶漬けでいただきましたとはさすがに言えない。
私がもう一度勧めると、お父さんが頭を下げた。
「そうですか。じゃあ、ありがたく。聡一、ちゃんとお礼を言いなさい」
「お姉さん、ありがとうございます」
聡一くんのお膳を確認する。量的に多すぎるということはないかもしれないが、
「おい、子供。ほうれん草は苦手か?」
と、真人が雑な言い方で尋ねると、聡一くんが照れたような笑いを浮かべた。
「少し苦手……」
お膳の中でほうれん草のごま和えがまったく手をつけられていない。もし、好きな物を後にとっておくタイプなら、私の分も上げようと思ったけど、まあ、このくらいの子供だとほうれん草は苦手な子が多いよね。ごま和えって食べ物自体、渋いし。
「ダメだぞ、ちゃんと食わないと勝てないぞ」何と戦うのか。
聡一くんがもう一度お父さんを確かめた。お父さんが苦笑しながら、「ちゃんと食べないとな」と言っている。
「ニンジンなら食べられる……」
「でも、ハンバーグについている甘いニンジンだけじゃないか」
お父さんにダメ出しされて、聡一くんが顔だけで泣いている。この子、かわいいな。
横合いから真人が手を伸ばして、聡一くんのお膳からほうれん草のごま和えの小鉢を取り上げた。
「あっ……」と聡一くんが驚いているのを尻目に、真人はさっさと聡一くんのほうれん草のごま和えに箸をつけてしまった。
「ちょっと、真人」
相変わらずこいつは何をやっているのか。
「巫女見習いのおまえが刺身をこの子供にやった。そのせいでこの子供のお膳は一人前より多くなってしまった。いくらこの子供が食欲旺盛でも、残してしまうかもしれない。残ってしまったら食べ物がもったいない。巫女見習いの不手際は俺が背金をとらなければいけない。だから俺がもらう」
薄々気づいていたけれど、この人は食べ物に感しては扱いが丁寧だと思う。せめてその半分くらいでも人に対して優しくなれないものか。
いや、でも。
何だかんだと理由をつけて聡一くんの苦手なほうれん草を食べてあげたのだから、少しは優しいところもあるのかもしれない。
こういう性格を何ていうのだったろうか。
そうだ。
こんな人のことは、たぶんこういうのだった。
不器用――と。