京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯
 清水寺の舞台から出る。本堂外陣の西側にひっそり御安置されている出世大黒天にお参りすると、みんなで音羽の滝に立ち寄った。本堂から東側の階段を降りた左手だ。

 もともと、清水寺の名前の由来がこの滝の清水で、古来から黄金水だとか延命水と呼ばれてきたという。大人になってから改めて旅に来ると、その場所の由来を知るのも楽しいと思えるようになるのが、少し楽しい。

 音羽の滝は三筋に分かれている。

 飲めばそれぞれ、向かって左から学業成就、恋愛成就、延命長寿の御利益があると言われていた。修学旅行のときは周りの目もあったし、迷うことなく学業成就の水をいただいたっけ。

 正式な作法は滝の奥に祀られている不動明王にお参りしてからお水をいただくようだ。なるほど、学業成就の水の効き目がいまいちだった理由はこれか。

 私の二の舞にならないよう、きちんとお参りをして聡一くんは学業成就の水をいただいてもらう。冷たくておいしいと喜んでいた。

 片桐さん夫婦は延命長寿の水を飲んでいる。

 社会人だから学業成就はちょっと距離があるし、恋愛成就も正直なところいまはそんな気持ちになれない。残るは延命長寿だけど、それもぴんとこなかった。

「巫女見習い、おまえは飲まないのか」

「うん。今回はいいかなって。あなたこそ飲まないの?」

「高貴な存在である神様見習いの俺が、いまさら願掛けするかよ」

 お参りを終えて、清水坂を下り、今度は産寧坂を経て二寧坂へ向かった。

 来たときと同じように店を眺めながら、ゆるゆると坂を下っていく。

 人混みの中を、聡一くんは片桐さんに寄ったり、成実さんに寄ったり、店に寄ったりと自由に楽しんでいる。

 だけど、そんな聡一くんたちから目を離さないで、真人が私の横で言った。

「あの夫婦、離婚するのか」

「えっ? 何言ってるの」

 内容が内容だし、これまでの真人と比べて随分低く小さい声だったので、思わず聞き返してしまった。

「離婚だよ、リ・コ・ン。婚姻関係に終止符を打つ。おまえ、何も知らないのか、巫女見習い」

「離婚という言葉は知ってるけど、『あの夫婦』ってどういう意味?」

「気づけよ」と真人が例によって不機嫌そうに言った。「あの夫婦、昨日からこれまで、一度も言葉も目線も交わしていない」

「本当なの?」

 真人が説明する。――片桐さんと成実さんは、聡一くんとは言葉を交わしている。しかし、夫婦の間のコミュニケーションは、ない。聡一くんがいなければあのふたりは会話すらできないほどの関係に陥っているのではないか、と。

 清水寺にある大黒天像をお参りするときにも、やたらと成実さんが真剣に祈っていた。真人の見立てでは、離婚してこれから自分が仕事に出なければいけないからその仕事の成功を祈っていたようだ。

 夫の出世を祈っていたのではないかと反論しようとしたが、真人が首を横に振った。音羽の滝で延命長寿の水を飲むために並んでいたとき、やっぱり夫婦ふたりでは終始無言だったし、お互いに使った柄杓には絶対に触れようとしなかったという。

「人間というのは本当に愚かしい。愛し合って、将来を誓い合って結婚とやらをしたくせに、いつの間にか足りないところばかりあげつらい、離婚とやらで別れていく。別に離婚してもいいけど、少なくとも人間の心というのが信頼に値しないことはこれでよく分かるというもの。まったくもって、未熟な魂の段階にとどまっている哀れな生き物だよ。おまえだって、そう思うだろ」

 散々な言いようだ。

「世の中、いろんな事情があるのよ」

 例えば家庭内暴力とかもあるだろうし、それ以外にもやむにやまれぬ事情があることもあるだろう。別にすべての離婚が擁護されてしかるべきとは私も思っていない。浮気や不倫による、言い訳のしようのない離婚もある。

 そして、私の両親も離婚している――。

 私が小学生の頃、両親は離婚した。原因は父親の女性関係だったらしい。

 それから私はお母さんとふたり暮らし。お母さんは小さな会社の経理をしながら、私を育ててくれた。仕事と育児の掛け持ちがどれほど大変だったか、まだ独身の私には理解しきれない。

 いわゆるシングルマザーのせいで私が周りから馬鹿にされるのではないかと、お母さんは随分心配していたように思う。

 だから、お母さんは私の進路には積極的に口を挟んできたのだろう。

 高校は公立の進学校で、大学は法学部か経済学部の四大。就職先は上場企業。

 そうすれば、母親しかいない家庭と後ろ指さされやしない、と。

 そのがんばりも、いまはぜんぶダメになってしまったのだけど……。

 私自身の感傷的な気持ちを、真人の不躾な声が現実に引き戻す。

「事情? まあ、これであの家族があの旅館にきた訳が分かった。さっさとどうにか解決させてしまおう。そうすれば神様への点数が上がる。おい、どうすればこの問題解決できるんだ。離婚やめさせればいいのか」

「そんな簡単なものじゃないでしょ」

 家に帰って「ただいま」と言っても誰も答えがないさみしさ。共働きの家ならみんなそうなのだろうけど、これまでの生活が激変した象徴みたいですごくつらかった。

 その気持ちがまだ脳裏に根付いているから……本当のことを言えば、私も勘づいていたのだ。片桐さん夫婦の状況に。

『ねえ、ママ、ママ。あっちに家族湯があるんだって』

『そう。いまはいいわ。ちょっとゆっくりさせて』

『パパ、今度の学校は、温泉がある所なんだよね』

『ああ、そうだ。休みの日には温泉巡りでもしよう』

『ふーん、そうなの』

 昨日の夕食前、大浴場のそばの休憩処での聡一くん家族の会話だ。

 家族風呂があるというのに、家族ばらばらの大浴場に入っていたこと。

 その家族風呂には両親のどちらも関心を持っていなさそうなこと。

 聡一くんの「今度の学校」という言葉。あのときの聡一くんの目線はお母さんに向けられていた。そして、お母さんのあの答え。転校するにしてもその学校の周りを母親が知らないのはおかしい。お父さんに確かめるフリをしながら、お母さんに新天地の学校の様子を教えていたのだとしたら……。

 一度引っかかってしまった違和感はその後の夕食のあいだも続いていた。

 そう思ってみてみると、食事中の聡一くんに、驚くほど言葉をかけない母親の姿も気になっていた。お刺身のやり取りも、お父さんが出てくるだけで母親は何も言わない。まるでもうう自分と縁が切れているかのようだった。

 だから――私は今日、清水寺に一緒に行こうと言った聡一くんの誘いに乗ったのだ。

 放っておけなかったのだ。

 嘘であって欲しかったのだ。

 私の見当違いだという証拠が欲しかったのだ。

 いま目の前では、まだ小学生のたれ眉の男の子が、花から花へと飛び回って蜜を集めるミツバチのように、両親の間を動き回っていた。

 でも、そこで手に入るのは素敵な花の蜜などではなくて。

 むしろ、ちりぢりになっていく家族を、小さなその手で必死につなぎ止めようとしていて――。

 あの子は分かっているのだろう。

 この旅行が家族最後の時間になるということを。

 そして、願っているのだ。

 その最後の時間が、せめて楽しい時間であって欲しいと。

 にこにこと両親に話しかけるその顔を、私は見ていられないのだった。
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