京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯
宿に戻って小宴会場に聡一くん一家が来ると、真人がつかつかと近づいていった。
昼間のいまである。真人が呼び出したそうだが、よく来てくれたと思う。真人は神通力を使ったとか言ってたけど、ほんとかしら。
ご両親は胡乱げに一瞥しただけだった。
私がとにかく謝らなければと思ったときだ。
突然、真人があくび混じりで口を開いた。
「腹減ったよな」
聡一くんたち三人が目を丸くした。私もびっくりして真人のそばに駆け寄った。
「ま、真人、何言ってるの」
「この馬鹿巫女見習いが子供を泣かせたから空気悪くなって、昼飯も食べずに帰ってきちゃったからさ」
「な……!」
何てこと言ってくれるの――! たしかに私が泣かせちゃったけど! あとで謝らなきゃとは思ってたけど!
さすがに片桐さんご夫婦の目が険しくなった。
あの団子屋さんで聡一くんが泣いてしまってから、雰囲気が悪くなってしまった。結局、お昼ご飯も食べずに「平安旅館」に戻って来てしまったのだ。
せっかくの、そしておそらくは最後の家族旅行を、私は台無しにしてしまった。
自責の念で潰れそうだった。
「ほら、おまえ謝れ」
真人が強引に私の頭を下げさせた。でも、謝りたかったのだ。
「本当にごめんなさい」
「いいよ」と小さな声がした。聡一くんだった。
その声のはかなさに私の涙腺が緩みかけたとき、真人が勢いよく頭を上げて笑った。
「ありがとうよ。お詫びとして、特製のうまいものを作ってきたぞ」
「え?」うまいもの、という言葉に聡一くんが敏感に反応した。
聡一くんが許しても両親の方はまだ言いたいこともあるだろうに、真人がずんずんと無視して話を進めていく。
「旅館では普通、昼ご飯は出さない。だから、ちょっとしたまかない飯なんだけど、俺が作った」
その言葉が合図になったように、厨房の方から美衣さんがお膳を持ってきた。小宴会場でご飯を食べるのは二回目だったが、今回は前回とは匂いからして違っていた。
「おいしそうな匂い」と聡一くんが笑顔になった。
「俺の特製、まかないハンバーグだ」
並べられたお膳には、デミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグが鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てていた。
「ハンバーグ、大好き」と、聡一くんが喜んでいる。
「真人、これ」いつの間に準備したのかと聞こうとしたが、真人は違うふうに受け取ったようだ。
「子供が泣いたときは、うまいものを食わせてあげればいいんだよ。合挽がなかったから、余ってる肉を適当に俺がミンチにした。すき焼きとかで出せる肉を挽肉にしたんだし、何より俺が作ったのだから味はいいぞ」
「はあ……」
「気にするな。巫女見習いの失敗の尻拭いも神様見習いの役目だ。何てつらい役目を、俺は自分に課しているんだろうな。俺の慈悲深さに感謝するといい。俺たちも昼飯食ってないから、一緒に食おうぜ」微妙に一言多いんだよね、この人は。
目の前においしそうな御馳走を並べられた聡一くんがそわそわしていた。
真人がにっこり笑った。
「食っていいぞ」
「いただきますっ」
きちんと手を合わせて、聡一くんがナイフとフォークを手に取った。
熱い鉄板の上でハンバーグがまだ音を立てている。
デミグラスソースが鉄板で焦げていい匂いをさせていた。
大きなハンバーグにナイフを入れると肉汁が溢れる。
切り口にソースと肉汁を塗りつけてひと口食べた。
「熱いっ」と聡一くんが舌を火傷している。「でも、おいしいっ」
塩コショウや香辛料のバランスがとてもいい。挽肉は真人が自分で挽いたせいかやや粗挽きだったが、よく練られていて、肉の旨味が強く引き出されていた。
ハンバーグだけでも素晴らしいのに、さらにライスと一緒に食べたときのおいしさ。
ライスの上にハンバーグを一切れ載せれば、白いご飯にデミグラスソースと肉汁が沁みていく。
それをハンバーグと共に口に入れた時の満足感は、いままで食べたどのハンバーグよりも圧倒的だった。
「おいしいね」と私が聡一くんに声をかけたけど、聡一くんは返事を返してくれなかった。やはりまだ怒っているよね……。
おいしいものを食べると人間は笑顔になるが、あまりにもおいしいものを食べると人間は思考が止まるのかも知れない。
それまで頑なに目をあわせていなかった片桐さんたちに変化があった。
「これ」
「うん――」
真人のハンバーグを食べた片桐さん夫婦が、思わずお互いの顔を見合ったのだ。
付け合わせはポテトフライとニンジングラッセ、ほうれん草のソテー。これらも真人の手作りみたいだ。
ポテトはソースと肉汁を含んでまた別の旨味を見せてくれる。
ニンジングラッセはニンジン本来の甘味や優しい香りでとろけるようだ。
そして、ほうれん草のソテー。
聡一くんの手が止まったのを真人が見逃さなかった。
「ソースをつけて食ってみろ。うまいぞ」
「でも、苦いから……」
「苦いように思えても、うまいものを一緒につけたら食べられるもんさ」
見た目だけはやたらとかっこいい真人がそういうと、聡一くんはのろのろとほうれん草にソテーをつけて少しフォークでとってみる。
私も応援しようとしたけど、聡一くんはこっちを向いてくれない。
片桐さんが聡一くんに言葉をかけた。
「食べてご覧」
成実さんも聡一くんに言った。
「おいしいよ」
聡一くんは意を決したようにほうれん草を、口に入れた。少しだけ。
何度か噛んで、ライスも口に入れて、ハンバーグも口に入れた。
よく噛んで飲み込んだ聡一くんが、にっこりとしてお父さんとお母さんに言った。
「おいしい」
その言葉を聞いて、片桐さん夫婦の顔に笑顔が宿る。
「よしよし」
「偉かったわよ、聡一」
褒められてうれしい聡一くんが、残っている料理を食べる。
その様子を見ながら、片桐さんが独り言のように言った。
「聡一がまだ二歳くらいのときに行ったハンバーグのお店も、うまかったな」
成実さんも誰にともなく言う。
「あのときはまだ少ししか食べられなかった聡一が、大きくなったわね」
ハンバーグを頬ばった聡一くんが、不思議そうに両親を見上げる。
「それ、どこのお店?」
「ああ、聡一が大きくなってからは行ってないもんな」
「仕事仕事だったものね」
片桐さんたちもハンバーグを改めて口に運ぶ。じっくり噛みしめながら、笑顔で話し始めた。
「これに比べると、大学の学食のハンバーグはまずかったなあ」
「そうね。固くて、ぬるくて。ソースも何だかよく分からなかったし」
「昔の国立大学だからなんだろうな。でも、こうして年を取っても思い出すってことは、やっぱり心には残ってるんだよな」
「ふふふ。最初のデートで食べた料理だったしね」
片桐さんと成実さんがお互いの顔を見て照れたように笑っている。
「お金もなかったし、店も全然知らなかったし」
「でも、私は満足だったわよ」
聡一くんがほうれん草をまた食べていた。さっきよりちょっと多めに。
まだおっかなびっくり食べるほうれん草のように、片桐さんと成実さんがぎこちなくぽつぽつと言葉を交わしている。ときどき、笑いながら。
「聡一」と真人が呼びかけた。
「何?」
「ほうれん草、もう大丈夫だな」
「デミグラスソースがあれば、苦くないから食べられるよ」
「よし。でもな、大人になったらその苦みがおいしいと思えるようになるんだ」
聡一くんが目を丸くしていた。
「そうなの?」
「ああ。それが大人になるってことなんだ」
聡一くん親子が笑顔で一緒においしいものを食べている。
もう、私や真人が話すことはなかった。
昼間のいまである。真人が呼び出したそうだが、よく来てくれたと思う。真人は神通力を使ったとか言ってたけど、ほんとかしら。
ご両親は胡乱げに一瞥しただけだった。
私がとにかく謝らなければと思ったときだ。
突然、真人があくび混じりで口を開いた。
「腹減ったよな」
聡一くんたち三人が目を丸くした。私もびっくりして真人のそばに駆け寄った。
「ま、真人、何言ってるの」
「この馬鹿巫女見習いが子供を泣かせたから空気悪くなって、昼飯も食べずに帰ってきちゃったからさ」
「な……!」
何てこと言ってくれるの――! たしかに私が泣かせちゃったけど! あとで謝らなきゃとは思ってたけど!
さすがに片桐さんご夫婦の目が険しくなった。
あの団子屋さんで聡一くんが泣いてしまってから、雰囲気が悪くなってしまった。結局、お昼ご飯も食べずに「平安旅館」に戻って来てしまったのだ。
せっかくの、そしておそらくは最後の家族旅行を、私は台無しにしてしまった。
自責の念で潰れそうだった。
「ほら、おまえ謝れ」
真人が強引に私の頭を下げさせた。でも、謝りたかったのだ。
「本当にごめんなさい」
「いいよ」と小さな声がした。聡一くんだった。
その声のはかなさに私の涙腺が緩みかけたとき、真人が勢いよく頭を上げて笑った。
「ありがとうよ。お詫びとして、特製のうまいものを作ってきたぞ」
「え?」うまいもの、という言葉に聡一くんが敏感に反応した。
聡一くんが許しても両親の方はまだ言いたいこともあるだろうに、真人がずんずんと無視して話を進めていく。
「旅館では普通、昼ご飯は出さない。だから、ちょっとしたまかない飯なんだけど、俺が作った」
その言葉が合図になったように、厨房の方から美衣さんがお膳を持ってきた。小宴会場でご飯を食べるのは二回目だったが、今回は前回とは匂いからして違っていた。
「おいしそうな匂い」と聡一くんが笑顔になった。
「俺の特製、まかないハンバーグだ」
並べられたお膳には、デミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグが鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てていた。
「ハンバーグ、大好き」と、聡一くんが喜んでいる。
「真人、これ」いつの間に準備したのかと聞こうとしたが、真人は違うふうに受け取ったようだ。
「子供が泣いたときは、うまいものを食わせてあげればいいんだよ。合挽がなかったから、余ってる肉を適当に俺がミンチにした。すき焼きとかで出せる肉を挽肉にしたんだし、何より俺が作ったのだから味はいいぞ」
「はあ……」
「気にするな。巫女見習いの失敗の尻拭いも神様見習いの役目だ。何てつらい役目を、俺は自分に課しているんだろうな。俺の慈悲深さに感謝するといい。俺たちも昼飯食ってないから、一緒に食おうぜ」微妙に一言多いんだよね、この人は。
目の前においしそうな御馳走を並べられた聡一くんがそわそわしていた。
真人がにっこり笑った。
「食っていいぞ」
「いただきますっ」
きちんと手を合わせて、聡一くんがナイフとフォークを手に取った。
熱い鉄板の上でハンバーグがまだ音を立てている。
デミグラスソースが鉄板で焦げていい匂いをさせていた。
大きなハンバーグにナイフを入れると肉汁が溢れる。
切り口にソースと肉汁を塗りつけてひと口食べた。
「熱いっ」と聡一くんが舌を火傷している。「でも、おいしいっ」
塩コショウや香辛料のバランスがとてもいい。挽肉は真人が自分で挽いたせいかやや粗挽きだったが、よく練られていて、肉の旨味が強く引き出されていた。
ハンバーグだけでも素晴らしいのに、さらにライスと一緒に食べたときのおいしさ。
ライスの上にハンバーグを一切れ載せれば、白いご飯にデミグラスソースと肉汁が沁みていく。
それをハンバーグと共に口に入れた時の満足感は、いままで食べたどのハンバーグよりも圧倒的だった。
「おいしいね」と私が聡一くんに声をかけたけど、聡一くんは返事を返してくれなかった。やはりまだ怒っているよね……。
おいしいものを食べると人間は笑顔になるが、あまりにもおいしいものを食べると人間は思考が止まるのかも知れない。
それまで頑なに目をあわせていなかった片桐さんたちに変化があった。
「これ」
「うん――」
真人のハンバーグを食べた片桐さん夫婦が、思わずお互いの顔を見合ったのだ。
付け合わせはポテトフライとニンジングラッセ、ほうれん草のソテー。これらも真人の手作りみたいだ。
ポテトはソースと肉汁を含んでまた別の旨味を見せてくれる。
ニンジングラッセはニンジン本来の甘味や優しい香りでとろけるようだ。
そして、ほうれん草のソテー。
聡一くんの手が止まったのを真人が見逃さなかった。
「ソースをつけて食ってみろ。うまいぞ」
「でも、苦いから……」
「苦いように思えても、うまいものを一緒につけたら食べられるもんさ」
見た目だけはやたらとかっこいい真人がそういうと、聡一くんはのろのろとほうれん草にソテーをつけて少しフォークでとってみる。
私も応援しようとしたけど、聡一くんはこっちを向いてくれない。
片桐さんが聡一くんに言葉をかけた。
「食べてご覧」
成実さんも聡一くんに言った。
「おいしいよ」
聡一くんは意を決したようにほうれん草を、口に入れた。少しだけ。
何度か噛んで、ライスも口に入れて、ハンバーグも口に入れた。
よく噛んで飲み込んだ聡一くんが、にっこりとしてお父さんとお母さんに言った。
「おいしい」
その言葉を聞いて、片桐さん夫婦の顔に笑顔が宿る。
「よしよし」
「偉かったわよ、聡一」
褒められてうれしい聡一くんが、残っている料理を食べる。
その様子を見ながら、片桐さんが独り言のように言った。
「聡一がまだ二歳くらいのときに行ったハンバーグのお店も、うまかったな」
成実さんも誰にともなく言う。
「あのときはまだ少ししか食べられなかった聡一が、大きくなったわね」
ハンバーグを頬ばった聡一くんが、不思議そうに両親を見上げる。
「それ、どこのお店?」
「ああ、聡一が大きくなってからは行ってないもんな」
「仕事仕事だったものね」
片桐さんたちもハンバーグを改めて口に運ぶ。じっくり噛みしめながら、笑顔で話し始めた。
「これに比べると、大学の学食のハンバーグはまずかったなあ」
「そうね。固くて、ぬるくて。ソースも何だかよく分からなかったし」
「昔の国立大学だからなんだろうな。でも、こうして年を取っても思い出すってことは、やっぱり心には残ってるんだよな」
「ふふふ。最初のデートで食べた料理だったしね」
片桐さんと成実さんがお互いの顔を見て照れたように笑っている。
「お金もなかったし、店も全然知らなかったし」
「でも、私は満足だったわよ」
聡一くんがほうれん草をまた食べていた。さっきよりちょっと多めに。
まだおっかなびっくり食べるほうれん草のように、片桐さんと成実さんがぎこちなくぽつぽつと言葉を交わしている。ときどき、笑いながら。
「聡一」と真人が呼びかけた。
「何?」
「ほうれん草、もう大丈夫だな」
「デミグラスソースがあれば、苦くないから食べられるよ」
「よし。でもな、大人になったらその苦みがおいしいと思えるようになるんだ」
聡一くんが目を丸くしていた。
「そうなの?」
「ああ。それが大人になるってことなんだ」
聡一くん親子が笑顔で一緒においしいものを食べている。
もう、私や真人が話すことはなかった。