御曹司とおためし新婚生活
「当時、俺には特に夢がなかった。将来は家業を手伝う。それで別にいいと思っていた。だが、彼女が真っ直ぐに夢を追う姿は眩しく、彼女にメイクをされた者は心から変わっていく。それを見ていて、ある時気付いた。彼女の腕は確かだが、魅力は化粧品の方にもあるのだと」
「それで、この業界に?」
「ああ。目立つのはうんざりだったし、何より、発信する側の方が個人的に楽しそうだったからな」
「そうだったんですね。私が明倫堂への入社を希望したのも、似たような理由です」
部長がフライパンの蓋をあけると、キッチンにほのかに漂っていたサフランの香りが濃くなって、そういえば私の母もよくパエリアを作っていたなと思いだす。
キッチンに立つ母の背中を思い出しながら、私は部長に語った。
私が幼い頃、父と一緒にプレゼントした口紅がきっかけで、病に臥せって気落ちしていた母が笑顔を見せていたことを。
それが明倫堂のものだったので、ずっと明倫堂で働きたいと思っていたことを。
「私たちは、願いが叶っているんですね」
「そうだな」
「じゃあ、せっかくなので乾杯でもしませんか?」
このお試し結婚生活は、自らの心強くし、結婚というものの見方を考え直す為のものとして始まったけど。
「いいな。家から持ってきているロマネコンティを開けるか」
「さすが! 飲みましょう!」
東雲部長と何でも話せる関係が築けたら、それも素敵だなと思いつつ。
「ではでは、これからも頑張りましょうということで」
「ああ。乾杯」
「乾杯!」
私たちはグラスを掲げ、今日も部長の手料理を堪能したのだった。